見えざる手
見えざる手(みえざるて、英: invisible hand)は、アダム・スミスの『国富論』の第4編第2章に現れる言葉。最適な資源配分を達成する市場による調整機能を指す。元々はキリスト教の終末思想に由来し、人類"最後の最終戦争には信徒は神の見えざる手により救済され天国へ行くことができるとした教えからくるもので、これを経済論に比喩として用いたものである[1]。 『国富論』には1度しか出てこない言葉であるが、多くの経済議論に用いられ非常に有名となっている。また、神の見えざる手(invisible hand of God)ともいわれるが、『国富論』には「神の(of God)」という部分はない。
人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。この利益は、例えば「莫大な利益を生み出し得る品物を生産する」といった形で事業を運営することにより、得られるものである。そして人がこのような行動を意図するのは、他の多くの事例同様、人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである。
— 『国富論』第4編「経済学の諸体系について」第2章
...he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain; and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention.
なお、同著者の著作である『道徳感情論』の中にも「見えざる手」についての記述があるが、これは『国富論』のものとは意味が異なる。
概要
市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成されるとする考え方。スミスは個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が「見えざる手」によって達成されると考えた。スミスは、価格メカニズムの働きにより、需要と供給のバランスは自然に調節されると考えた。
スミスはそのために、国家は国防・警察・教育等の必要最小限以外の経済活動への参入を否定し、あとは市場機能による経済の発展を重視すべしとの立場をとり、国家の経済への介入を批判した。スミスの国家観は「夜警国家」のそれであったということができる。
脚注
- ^ 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(著)島田裕巳 ISBN 4166607278