藤原宗成
藤原 宗成(ふじわら の むねなり、延暦4年(785年) - 天安2年5月27日(858年7月11日))は、平安初期の貴族。藤原北家、左大臣・藤原永手の曾孫。参議・藤原家依の孫。従五位下・藤原三起の長男。母は犬養伯女。位階は従五位上[1]。
略歴
大同2年(807年)に中務卿兼大宰帥・伊予親王に謀反を勧めたとして捕らえられるが、尋問にあたり謀反の首謀者は伊予親王であると答えた。この事件で藤原吉子・伊予親王母子は川原寺に幽閉され自殺、大納言・藤原雄友は流刑、中納言・藤原乙叡は解官され、藤原南家は没落した。また、宗成自身も流刑に処せられたという(伊予親王の変)。宗成は藤原式家の藤原仲成にそそのかされたともいうが、定かではない。
その後、流刑から赦されたらしく、天長6年(829年)正六位上から従五位下に昇叙、天長9年(832年)従五位上に叙されるなど、淳和朝でわずかに昇進している。承和7年(840年)淳和上皇の崩御に際して、御前次第司次官に任ぜられた。
伊予親王の変以降、世間から見捨てられたような状態となり、貧困のうちに卒去した[2]。享年74。最終官位は散位従五位上。
人物
才学がなく、不正な意図を持って媚びへつらうようなところがあった。また、のちに右大臣にまで昇った清原夏野と幼少の頃に親しい友人であったという[2]。