蕨手刀
蕨手刀(わらびてとう、わらびてがたな、わらびてかたな)は、日本の鉄製刀の一種。蕨手刀が毛抜形蕨手刀、毛抜形太刀(太刀の起源)に発展したことから、日本刀の起源の一つとして言及されることもある。
概要
古墳時代終末期の6世紀から8世紀頃にかけて東北地方を中心に制作される。7世紀後半頃の東北地方北部の古墳の副葬品の代表例。太刀身の柄端を飾る刀装具である柄頭が、蕨の若芽のように渦をまくのがデザイン的特徴である。また、柄には木を用いず、鉄の茎(なかご)に紐や糸などを巻いて握りとしている共鉄柄(ともがねつか)である。
日本全国で200点以上が確認されている。ほとんどが古墳や遺跡からの出土である。発見場所の分布は北海道・東北地方が多く特に岩手県からの出土が70点以上と極めて多い。甲信越地方にも例が見られ、四国九州にも若干存在する。なお、正倉院にも蕨手刀(「黒作横刀」)が保存されている。
初期の形状は柄と刀身が直線的であるもの(直刀)が多い。東北地方では、刃が上を向くように柄に反りを生じるようになる。湾刀の形状に近くなったのは騎馬戦が盛んになったためと下向井龍彦は指摘している[1]。また新しい年代のものには柄に毛抜形の透かしの入った形状を持つものがある。
成分分析の結果
新日鉄の研究所で分析が試みられており[2]、その結果、砂鉄を原料としている事、炭素量が少なく、混入物が多い事が解った。刃の部分だけ炭素量の多い鉄で巻くようにしているものもあるが、炭素量が非常に少ないという事は鉄の硬さが弱いという事であり、実用的でないものもあって、品質差が大きかったという事になる。ケイ酸塩などの混入物が多い質の良くない鉄で作られていた事が判明し、稲荷山鉄剣との精製度の違いが浮き彫りになった形となる。
備考
- 蕨手刀自体は江戸時代から確認されており、随筆『桂林漫録(けいりんまんろく)』(寛政12年)の絵図には、古刀図として、切先から頭までが二尺五寸四分強の蕨手刀が描かれている。記述によれば、現在の岩手県和賀郡出土のものとある。
- 作刀・鑑定研究などから蕨手刀は一関の舞草刀(もくさとう)に受け継がれたと考えられており、平安末期から鎌倉の頃にかけて奥州鍛冶(広義には出羽月山鍛冶を含む)が大和あるいは九州へ招かれ、大和千手院、豊後行平、薩摩波平へとつながると解する論者もいる[3]。
- 柄頭の形状に着目した場合、柄の端部(茎尻)が蕨型に装飾があり刃長が1尺(30.3cm)に満たない[4]刀子は蕨手刀子と呼称される。5世紀から6世紀にかけての日本で多数出土しており、これも共鉄柄であり、10センチ前後から20センチを超えるものが発掘されている[5]。この蕨手刀子は、朝鮮半島では大邱市達城(タルソン)55号墳など数古墳で確認されるのみである。松井和幸によれば、柄部が刃先と反対に曲げられている曲刀子が蕨手刀子の源流とされ、釜山市老圃洞(ノポドン)遺跡33号墳(3世紀後半)や福岡県池の上墳墓群などから出土している[6]。主に西日本で見られる蕨手刀子と蕨手刀との関係、ないしはどのような経路・経緯をもって東北で武器である刀として大型化し普及したのか詳細はまだ不明である。
参考図書
- 『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著
- 『古代刀と鉄の科学』石井昌國著、佐々木稔著
脚注
- ^ 日本の歴史07『武士の成長と院政』 2001年 下向井龍彦 講談社 ISBN 4-06-268907-3
- ^ 『古墳と地方王権』 小林三郎編 新人物往来社 1992年 ISBN 4-404-019769 p.166
- ^ 「黎明館波平展挨拶書」調所一郎[1]に紹介あり
- ^ 川崎市教育委員会[2]
- ^ 参考:勝負砂古墳第四次調査・二万大塚古墳第4次発掘調査 概要報告[3]
- ^ 松井和幸 『日本と朝鮮半島の鉄と鉄製品』 1990年