蔡琰
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Cai_Wenji.png/220px-Cai_Wenji.png)
蔡 琰(さい えん、177年(熹平6年)? - 239年(景初3年)?)は、中国後漢末期から三国時代魏の詩人。字は昭姫[1]。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡邕。才女の誉高く音律に通じ、また数奇な運命で知られる。
河東の衛仲道の妻となるが、死別する。195年(興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴の左賢王劉豹に側室として留め置かれる事になった。そこで左賢王との間に2子をもうけた。12年後の207年、蔡邕の後継者が居ない事を惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払った事によって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書の内、蔡琰の暗記していたものを復元した。
陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。1991年には付近に記念館が建てられた。
現存する詩として、自らの波乱の人生を綴った『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の2首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。
蔡琰の人生を題材にした作品に、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若の戯曲などがある。
金星には彼女の名がついたクレーター (CaiWenji) がある。