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蔡琰

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蔡琰

蔡 琰(さい えん、177年熹平6年)? - 239年景初3年)?)は、中国後漢末期から三国時代の詩人。昭姫[1]。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡邕。才女の誉高く音律に通じ、また数奇な運命で知られる。

河東の衛仲道の妻となるが、死別する。195年興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴左賢王劉豹に側室として留め置かれる事になった。そこで左賢王との間に2子をもうけた。12年後の207年、蔡邕の後継者が居ない事を惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払った事によって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書の内、蔡琰の暗記していたものを復元した。

陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。1991年には付近に記念館が建てられた。

現存する詩として、自らの波乱の人生を綴った『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の2首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。

蔡琰の人生を題材にした作品に、北京頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若戯曲などがある。

金星には彼女の名がついたクレーター (CaiWenji) がある。

脚注

  1. ^ 代、司馬昭を諱避するために文姫と改められた。

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