蒙古襲来絵詞

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蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、筆者不明の全2巻の絵巻物竹崎季長絵詞とも。鎌倉時代後期の作で、肥後国御家人竹崎季長が『元寇』における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている。

文永の役』でが飛び交い、鉄砲が炸裂する中をモンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵

概要

季長を中心に元寇での実戦の様子が描かれており、軽装歩兵・集団戦術で戦う蒙古兵の姿や、軍船、使用した「てつはう」などの兵器が描かれた唯一の画像史料として知られる。

ストーリーは、前巻は季長が5名の郎党を率いて文永の役に出陣して戦い、その後、一番駆けの武功に対する恩賞が出ないことを不服として鎌倉へ赴き、安達泰盛と直談判を行って恩賞地と馬を与えられる様子が描かれ、後巻では、海東郷の地頭として出世を果たした季長が弘安の役に出陣して戦う様子が描かれており、末尾には家訓とともに「永仁元年二月」(1293年)の日付が記されている(「永仁」への改元は同年8月)。

特に前巻における季長が文永の役において、一番駆けの武功を挙げるべく、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中をモンゴル帝国連合軍へ向かって斬り込んでいき、敵の反撃で季長の馬に矢が刺さって血が噴き出している場面は、日本史の教科書によく掲載されている。

なお、絵巻物自体は中世のものと考えられているが、蒙古兵と日本騎馬武者の描写の違いなどから、後世の加筆、改竄、または編纂があったとする説も提唱されている。特に、季長と対峙する3人の蒙古兵(上の画像)は同じ絵巻の他の蒙古兵と装備や絵のタッチが明らかに異なり、近世に加筆されたと考えられており、九州国立博物館の文化交流展示室ではこの説が紹介されている。一方、後世の加筆や改竄ではなく、季長自身の指示による追加・手直しとの見方もある(大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』)。

ギャラリー

前巻1 「文永の役」 詞一~四、絵一~七
前巻2 「文永の役」 詞五、絵五~八
前巻3 「鎌倉」 詞六~九、絵九,十
後巻1 「弘安の役」 詞十、絵十一~十二
後巻2 「弘安の役」 詞十一~十三、絵十二~十七
後巻3 「弘安の役」 詞十三~十六(奥書)、絵十八~二十一(最後)

関連書籍

  • 石井進 『鎌倉びとの声を聞く』 NHK出版、2000年。
  • 大倉隆二 『「蒙古襲来絵詞」を読む』 海鳥社、2007年。
  • 太田彩編 『日本の美術414 絵巻=蒙古襲来絵詞』 至文堂、2000年、11月。
  • 小松茂美編 『蒙古襲来絵詞 日本の絵巻 13』 中央公論社 1988年、4月。

関連項目

外部リンク