稲葉正巳

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中央が稲葉正巳。他は大関増裕松平太郎勝海舟石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則(外国奉行)。

稲葉 正巳(いなば まさみ、文化12年10月15日1815年11月15日) - 明治12年(1879年9月16日)は、江戸時代後期の大名安房国館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。母は本多忠誠の娘。正室は諏訪忠恕の娘。官位は従四位下兵部大輔

生涯

文政3年(1820年)、父の死により家督を相続する。文久2年(1862年)、若年寄に就任。元治元年(1864年)、外国御用取扱勝手掛・海陸備向取扱となり、同年、神戸海軍操練所設立に尽力。若年寄を辞めて隠居、家督を大岡忠恕の次男で養子の稲葉正善に譲る。翌、慶応元年(1865年)、若年寄に再び任じられ、幕府海軍の軍制整備を担当。徳川慶喜に重用され、慶応2年(1866年)、幕府陸軍奉行老中格、幕府海軍総裁に進む。1868年(明治元年)に幕府全ての役職を辞任して、新政府に恭順した。

年譜

関連項目

参考文献