大岡忠恕

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大岡忠恕
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政5年8月12日1822年9月26日
死没 明治13年(1880年9月27日
別名 銈次郎、邦之丞(通称
墓所 埼玉県さいたま市岩槻区日の出町の龍門寺
官位 従五位下、兵庫
幕府 江戸幕府
武蔵岩槻藩
氏族 大岡氏
父母 父:大岡忠固、母:稲葉正諶の娘
兄弟 忠恕、女子(酒井忠良正室)、女子(堀田正修正室)
正室:横田春松の娘
忠貫稲葉正善田沼意斉、安藤某
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大岡 忠恕(おおおか ただゆき / ただのり)は、江戸時代後期の大名武蔵岩槻藩藩第7代藩主。大岡忠房家10代当主。大岡忠固の三男。

生涯[編集]

天保9年(1838年)12月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下兵庫頭に叙任する。嘉永5年(1852年8月25日、父忠固の死去により家督を相続する。文久2年(1862年)に公武合体の一環として、孝明天皇の妹・和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁の際、幕府より道中警備を命じられて助郷と人馬のほか34名の藩士を駆出している。この負担により藩内の村々は疲弊した。

このほかに幕末の動乱や天災、岩槻城本丸の焼失など災害にも遭い、藩の財政破綻に苦しむ治世だった。慶応2年(1866年3月29日、隠居し、長男忠貫に家督を譲った。慶応4年3月8日、江戸から岩槻に移住する。明治3年(1870年)3月25日、明治天皇に拝謁する。明治4年(1871年)11月14日、東京に移住する。明治13年(1880年)に死去。享年58。

系譜[編集]

父母

正室

子女