碧蹄館の戦い

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碧蹄館の戦い
戦争文禄の役
年月日文禄2年1月26日(1593年2月27日)
場所朝鮮国京畿道
結果:日本軍の勝利
交戦勢力

李氏朝鮮

日本豊臣政権
指導者・指揮官
李如松

高彦伯(朝鮮軍)

先鋒隊小早川隆景

本隊宇喜多秀家

戦力
20,000(馬軍主体) 先鋒隊20,000

本隊21,000(大部分は戦闘未参加)

損害
6,000余[1] -
文禄・慶長の役

碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。

文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現在のソウル)めざして南下する提督李如松率いる40,000余の軍を、宇喜多秀家小早川隆景らが率いる約41,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。

戦闘までの経緯

明の軍勢による平壌陥落、大友吉統の逃亡(誤報による無断退却とも)などによって一時混乱状態にあった日本勢だが、朝鮮半島北部各地に展開していた諸将を漢城に集めて戦力を立て直し、宇喜多秀家を総大将、小早川隆景を先鋒大将として兵力をほぼ二分し碧蹄館の戦いにのぞんだ。

一方の明軍は、24日開城に至ると歩兵と火器の大部分をそこに残し、李如松本来の部下である遼東の馬軍(騎兵)を基幹とした約20,000の兵を先行させた。翌25日に生じた偵察隊同士の戦闘で圧勝したこともあり、李如松は”日本軍の精鋭は平壌で壊滅し漢城には弱兵が残るのみ”との報告を信じ、日本軍の戦力を下算して全軍を集結させないまま攻撃をし掛けた。

戦闘の経過

日本軍先鋒隊は26日未明より行動を開始し、午前6時頃から礪石嶺において先陣の立花宗茂高橋直次が明副将(副総兵)查大受率いる明軍先鋒と激戦を開始した[2]。日本軍先鋒隊は、先鋒500を率いた十時連久を正面に少ない軍旗を立てることで、明・朝鮮軍を騙してこれを側面奇襲し撃退したが、十時連久は突撃の際に毒矢を受けて戦死し[3]、旗奉行の池辺永晟が先鋒隊の指揮を暫任したが中陣と替わる殿後の最中に戦死した。寡兵の立花・高橋勢は苦戦しつつもこれを支え、小早川勢の来援をえて明軍先鋒を撃退した。この戦端が開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在った。

午前10時頃、明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せた。日本軍は全軍を碧蹄館西面の小丸山に埋伏させた。疲労の深い立花勢を後方に下げ、替わって前面に出た小早川隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った粟屋景雄隊が次々繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると明軍はすかさず追撃に移る。しかし戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景貞隊がその側背に回り込んで攻撃したことで明軍は大混乱となった。その機を逃さず、立花、高橋勢が左方から、小早川秀包毛利元康筑紫広門勢が右方から側撃、隆景本隊と吉川広家、宇喜多家臣戸川達安も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して李如松率いる本隊に迫った。そこに明軍副総兵楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍として駆けつけ態勢を回復して防戦に努めるが、身動きもままならない狭隘地に三方から包囲される形となって壊走を始める。

立花の金甲の将・安東常久と一騎討ちして李如松自身も落馬したが、李如梅の矢を受けて安東は戦死した。落馬した李如松は小早川の部将井上景貞の手勢に迫られたが、側近の李有声が盾となってこれを助け、李如梅李如柏らが救出した。

かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵隠嶺まで追撃したが、さらに追おうとする立花勢を小早川隆景が押しとどめ、それ以上の深追いはせず夕刻までに漢城に引き上げた。なお、立花軍の金備え先鋒隊長小野成幸や与力衆の小串成重小野久八郎と一門の戸次鎮林も戦死し、立花宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、四つの甲首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。

明軍の被害

この戦いでは、明軍は騎兵中心の編成となっていたが、碧蹄館の地は騎兵の機動力を活かすことの出来ない狭隘な渓谷であり、かつ前夜よりの雨で泥濘地と化していた騎馬に不適な戦場であったこともあり、この一戦で明軍の被った損害は戦死者数6,000余に上るとされる。

その後の影響

この戦いの敗北によって李如松は戦意を喪失して明軍の勢いはそがれ、武力による日本軍撃退方針を諦めて講和交渉へと転換する。その一方で日本軍も3月に明軍に漢城近郊・龍山の兵糧倉を焼き払われ、食料調達が最も困難なときに兵糧面で甚大な損失を出したため長期戦が難しくなり、石田三成小西行長らは明との講和交渉を開始した。

日本・明両軍の編成

日本軍

総大将-宇喜多秀家・先鋒隊大将-小早川隆景

先鋒隊

本隊

漢城守備

明軍

  • 大将-李如松-親衛1000人
  • 先鋒-査大受・李寧・高彦伯(朝鮮軍)-10000人
  • 左軍-李如梅-1000人
  • 中軍-李如柏-1000人
  • 右軍-張世爵-1000人
  • 援軍-楊元-5000人(火軍)
  • 後備-歩兵と火器の大半を開城に残置

脚注

  1. ^ 参謀本部編 『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』 偕行社、大正13年(1924年)
  2. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十七宗茂の決心)[1]
  3. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十九十時傳右の戦死)[2]