石川垣守

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石川 垣守(いしかわ の かきもり、生年不詳 - 延暦5年5月5日786年6月5日))は、奈良時代貴族中納言石川豊成の子。官位正四位上宮内卿

経歴

天平勝宝7年(756年東大寺に対して絵軸20枚を求めたとの記録があり[1]外嶋院写経所に出仕していたものと想定される[2]天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に付いて、乱の最中に正六位上から二階昇進して従五位上に叙せられ、翌天平宝字9年(765年)正月には乱の功労により勲六等叙勲を受けた。のち木工頭を経て、神護景雲4年(770年)7月に正五位下に叙せられ、同8月の称徳天皇の大葬に際して装束司を務めた。

光仁朝では、木工頭・中務大輔右京大夫刑部卿といった京官や安房守伊予守など地方官を歴任する一方、宝亀5年(774年)正五位上、宝亀7年(776年従四位下と昇進した。また、天応元年12月(782年1月)に光仁上皇が崩御した際には作方相司を務めている。

桓武朝では左京大夫・武蔵守宮内卿を歴任する傍ら、造長岡宮使および別当として長岡京造営を担当した。延暦3年12月(785年1月)従四位上に昇進し、翌延暦4年(785年)正四位上に至る。同年9月に発生した藤原種継の暗殺事件に連座した早良親王淡路国配流するために派遣され、船で親王を移送している[3]。延暦5年(786年)5月5日卒去。最終官位は宮内卿正四位上。

また仏教への信仰心が厚く、道璿に師事して竜淵居士と称された。

脚注

  1. ^ 『正倉院文書写経機関関係文書』天平勝宝7歳-002-4-3
  2. ^ 『日本古代人名辞典』吉川弘文館、1977年
  3. ^ 日本紀略』延暦4年9月28日条

参考文献

  • 宇治谷孟『続日本紀』(中下巻)講談社学術文庫、1992年
  • 佐々田悠『正倉院文書写経機関関係文書編年目録 -天平勝宝6年より天平宝字元年まで -』(東京大学日本史学研究室紀要,第8号所収)2004年[1]