王双

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王双

将軍
出生 不詳
死去 228年
拼音 Wang Shuang
不詳
(『三国志演義』では「子全」)
主君 曹丕曹叡
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王 双(おう そう、生年不詳 - 228年)は、中国三国時代の軍人、将軍

略歴

222年黄武元年)、曹丕の命により大司馬曹仁に従って、の濡須への攻撃に加わった。曹仁が濡須督である朱桓に大敗すると、生け捕りにされて武昌に送られた。

228年冬、陳倉城を包囲していた蜀漢軍が兵糧が尽きて撤退した時に[1]曹真配下として騎兵を率いてこれを追撃したが、諸葛亮の反撃に遭って戦死した。

正史三国志』には以上の記述しかないため、曹仁の下で呉に侵攻し捕らわれた王双が釈放され、曹真配下で蜀と戦い戦死したのか、そもそも同姓同名の別の人物なのかは不明である。

物語中での王双

小説『三国志演義』では子全(『横山三国志』では子金)、隴西郡狄道県(現/甘粛省天水市)の人という設定になっている。若くして曹真に従い、虎威将軍に任じられて諸葛亮率いる蜀軍と戦う。流星鎚の使い手であり、蜀の謝雄らを討ち取り、張嶷に重傷を負わせるなどの活躍をするが、諸葛亮の策を受けた魏延によって斬り殺されている。

注釈

  1. ^ 曹真伝では、これに先立ち郝昭と共に、王生なる部将を陳倉に派遣して守備に当たらせている。