片倉重長
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 天正12年(1584年)12月25日 |
死没 | 万治2年3月25日(1659年5月16日) |
改名 | 重綱→重長 |
別名 | 小十郎 |
主君 | 政宗 |
藩 | 陸奥国仙台藩士 |
氏族 | 片倉氏 |
父母 |
父:片倉景綱 母:矢内氏の娘 |
妻 | 某(針生盛直の娘)、後妻・阿梅(真田信繁の娘) |
子 | 喜佐(松前安広の室)、養子片倉景長(実は松前安広の子) |
片倉 重長(かたくら しげなが、天正12年(1584年)12月25日 - 万治2年3月25日(1659年5月16日))は、江戸時代の武将、仙台藩伊達氏の家臣。伊達政宗に仕えた片倉景綱の子で、重長は政宗・忠宗・綱宗の3代に仕えた。白石城主。幼名・通称は弥左衛門、左門、左衛門。通称は片倉家の当主に代々引き継がれた小十郎である。名ははじめ重綱だったが、3代将軍徳川家光の嗣子・家綱の諱字を避けて重長と改名した。法名は一法元理真性院。
妻は針生盛直の娘、後妻は阿梅真田信繁(幸村)の娘[1]。子に松前藩初代藩主・松前慶広の八子松前安広の妻・喜佐(針生氏の子)。男子が無かったため松前安広と喜佐の子の外孫景長を養子とした。
略歴
天正12年(1584年)12月25日、羽州置賜郡下長井荘宮村片倉館に片倉景綱の子として生まれる。
天正19年(1591年)伊達成実を烏帽子親として元服し、片倉重綱と称した。この年、重綱は主君政宗、そして父景綱と供に京都伏見に登り、慶長4年(1599年)まで滞留し、その間に太閤殿下に奉り御羽織を賜った。
慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの白石城の戦いでは、亘理城の留守居役を命ぜられていたが、父景綱とともに従軍し、初陣を飾る。
翌年の慶長6年(1601年)9月、主君政宗の京都伏見御登の御供として、父景綱と供に同行する。慶長7年(1602年)1月には、主君政宗は大阪に至り豊臣秀頼に謁している。この年の7月、京都伏見に於いて小早川秀秋に謁する。慶長8年(1603年)に主君政宗とともに帰城する。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、病中にあった父に代わって政宗に従い参陣し、敵将の後藤基次を討ち取るなどの功績を立て大いに名声を上げた。但し、父には一軍を預かる将として刃を交えることなどあるまじき行為、として叱咤をうけた。だが、世間からは父に劣らぬ智勇兼備の名将で、「鬼の小十郎」と称された。
元和元年(1615年)10月14日、父の景綱が死去する。
元和6年(1620年)、重長の正妻は江戸に證人として滞在していたが、真田氏の阿梅を継室として迎え入れる。阿梅は当初、大坂落城の折、誰の女か知らず得て侍女としたが、旧真田家臣が慕いて片倉家を訪れ、真田信繁の娘であったことを初めて知ったという。その訪れた旧真田家臣は三井と称し、以後片倉家の臣となった。このとき、阿梅は17歳であった。
重長の正妻は寛永3年(1626年)7月に江戸屋敷にて亡くなった。
寛永13年(1636年)4月、主君政宗が参勤交代により江戸に向かう途中、白石城に一泊し、養嗣子の景長とともに拝謁する。
慶安4年(1651年)12月28日(1652年1月)、主君忠宗公より仙台藩の家格中の「一家」の座を賜る。
万治2年(1659年)3月25日、没す。享年76歳。法名真性院
重長の死後、養子となった外孫の景長が片倉家を継いだ。
系譜
逸話
- 重長の母が重長を懐妊した時、主君伊達政宗は前年に家督相続したばかりでまだ嫡子がなかった。このため、父・景綱は、「伊達家に嫡男誕生までは片倉家に慶事罷りならぬ」として生まれた子は直ちに圧殺するつもりであった。これを聞いた政宗は、「その方の言い分もあろうが思いとどまってもらえないだろうか。子を殺害するようなことがあればその方を恨むぞ。わしの顔に免じてどうか助けてやってほしい」という書状を景綱に出している。
- 美貌の持ち主であり、男色家として知られる小早川秀秋が彼をつけまわしたとの話が残る(『片倉代々記』中『二代重長譜』にこの記述がある)。また主君である政宗とは衆道関係にあったという説もある。
参考文献
- 片倉代々記
- 仙台真田代々記
- 白石城主片倉氏と家臣の系譜
脚注
- ^ 時野佐一郎 『日本史傑物伝 第一三二話 大谷吉継』 アサヒ芸能 2011年10月6日特大号
- ^ この陣のおり、主君を失った真田昌幸・信繁父子の家臣を保護しており、大坂夏の陣の決戦前夜、5月6日の夜に真田信繁の子を何名か保護し、その中の一人阿梅を後に継室として迎え入れている。(一説には奮戦する重長を大坂の戦場で見た信繁が、この将ならばと、片倉の陣に矢文を送り婚姻の儀申し入れたと言われている)。 その際に、おかね、阿菖蒲、女子(名前不詳)、そして信繁の次男大八が保護されて片倉家の居城白石で養育、大八は信繁の子の中で唯一真田姓を継いだ男児となった。