源雅通 (宇多源氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Suzukitaro (会話 | 投稿記録) による 2012年12月17日 (月) 02:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (-{{転載疑い}} 2009年3月に添付されたまま放置されているので除去。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

源 雅通(みなもと の まさみち、生年不詳 - 寛仁元年7月10日1017年8月4日))は、平安時代中期の官人歌人宇多源氏敦実親王流。左大臣源雅信の孫。権左少弁源時通の子。母は但馬源堯時女。子に源雅孝(従五位下)・念真(東寺阿闍梨)・行源(延暦寺阿闍梨)・雅尊(延暦寺阿闍梨)・念尊(園城寺阿闍梨) らがいる。丹波中将と呼ばれた。

永延元年(987年)父が出家した後、祖父雅信の養子になる。そして雅信の死後は藤原穆子(雅信の室)に養育された(『栄花物語』巻12)。また、叔母にあたる源倫子藤原道長室)の縁故から、道長夫妻の庇護をも受けた。長徳4年(998年右近衛権将監に任ぜられ、その後、右近衛権中将・五位蔵人・敦成親王(後一条天皇)家別当・木工頭冷泉院御厨別当・丹波守・中宮藤原妍子)亮などを歴任した。寛仁元年(1017年)7月10日、当時流行していた疫病によって卒去したが、最終官位は従四位下右近衛中将だった。

人柄は正直で人に媚びることはなかったが、春秋の逍遥遊戯に惹かれ、狩猟に耽り、栄華を好むなど罪業を積んだが、道心あって平素より法華経を読んだことから往生を得ることができたとされる(『本朝法華験記』ほか)。歌人でもあり、『後拾遺和歌集』に1首、『和泉式部集』に1首、『伊勢大輔集』に2首の和歌が収録されている。

関連項目