清原雪信
清原 雪信(きよはら ゆきのぶ、寛永20年(1643年)? - 天和2年4月29日(1682年6月5日)?[1])は江戸時代前期に活躍した狩野派の絵師。久隅守景の娘で、狩野探幽は大叔父にあたる。江戸時代には狩野派随一の閨秀画家として知られた。
略伝
探幽門下四天王のひとり父・久隅守景と、守景と共に探幽四天王に数えられる神足常庵の娘で、探幽の姪に当たる母・国との間に生まれる。伊藤仁斎の子・伊藤梅宇著の『見聞談叢』では、梅宇の祖母・那倍は「画工狩野雪信」と親しかったと記され、その談話がよく引用される。それによると、雪信は狩野法眼(探幽)の姪で、17・8歳で絵を良くし日々法眼へ通っていたが、稽古の時尼崎仕官の人の子と通じ、清信の母が強く叱ったため、家を出てその男と別宅し画を描いて渡世とし、後に大いに繁盛し尼崎にて没したという。
探幽の弟狩野安信の高弟・狩野昌運が記した『昌運筆記』では、清原氏に嫁いで京都に住んだとし、さらに「白石蔵本狩野系図」という資料を引き、探幽門人の清原氏平野伊兵衛守清に嫁したとする。しかし、落款の「清原氏女」を素直に解釈すれば雪信本人が清原氏だと考えられ、神足一族の家系図から清原氏は祖父・常庵の姓だと見なせる。雪信が父方ではなく母方の姓を名乗ったのは、神足家は山城国西岡(現在の京都府長岡京市)の国人で、その盟主的存在という由緒ある武士の家柄で、母の家系は探幽に連なっていることを踏まえれば、雪信にとって「清原氏」とは自らの家系・画系の正当性を保証する名前だったと考えられる[2]。白井華陽筆の『画乗要略』では、絵を探幽に学び、識者は女性画家の中で一番だと讃えたという。
井原西鶴の『好色一代男』巻七「末社らく遊び」における島原太夫の衣装は、白繻子の袷に雪信が秋の野を描き公家の和歌を添えたと記され、談林や蕉風、与謝蕪村の俳句にも詠まれた。更には「女絵師狩野雪姫」「富仁親王嵯峨錦」「祇園祭礼信仰記」の浄瑠璃や歌舞伎作品などで、雪信をモデルとした「雪姫」という人物が登場するし、当時の人気の高さが窺える。娘に同じく絵師だった清原春信がいる。
作風
作品の落款は常に「清原氏女雪信筆」と署名し、「清原女」の朱文印を押した作例が多く、年記があるものは知られていない。小野小町や源氏物語といった、日本の古典文芸に関係した作品を数多く描き、それらの殆どは掛け軸形式の着色画である。一方、観音図や花鳥画など、本来の狩野派が得意とする漢画系の画題も描いているが、それらの筆触はたおやかで、繊細で清楚な趣きをもつ。
代表作
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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花鳥図 | 双幅 | 東京国立博物館 | ||||
花鳥図屏風 | 紙本墨画・金砂子散らし | 六曲一双 | 板橋区立美術館 | |||
四季花鳥図屏風 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 個人 | |||
観音図 | 絹本淡彩 | 1幅 | 京都国立博物館 | |||
源氏物語画帖 | 紙本著色 | 1帖 | 徳川美術館 | 「清原」朱文方印 | 詞書二条康道 | |
野宮図 | 紙本著色 | 1幅 | 斎宮歴史博物館 | |||
女房三十六人歌合画帖 | 絹本著色 | MIHO MUSEUM | 1670-71年(寛文10-11年) | 最後の歌人藻壁門院少将の左下に「清原氏女雪信筆」落款 「清原」朱文方印 | 画帖に付属する覚書に徳川家綱の正室・顕子女王から「松村中山」(不詳。大名の妻女など身分の高い人物か)が拝領した旨が記されている[3] | |
紫式部図 | 尼崎市教育委員会 | |||||
白衣観音図 | 尼崎市教育委員会 | |||||
紫式部図 | 絹本著色 | 実践女子学園香雪記念資料館 |
脚注
参考資料
- パトリシア・フィスター 『近世の女性画家たち ―美術とジェンダー―』 思文閣出版、1994年、pp.108-110、ISBN 4-7842-0860-7
- 松嶋雅人 『久隅守景』 至文堂〈日本の美術489〉、2007年、pp.28-30、ISBN 978-4-7843-3489-6
- 高橋亨 「清原雪信の「源氏物語画帖」とその画風」『武家の文物と源氏物語絵―尾張徳川家伝来品を起点として』 翰林書房、2012年4月pp.408-430、ISBN 978-4-87737-327-6
- 大平有希野 「清原雪信の伝記に関する考察─『古画備考』雪信伝の再検討と「清原氏」をめぐる問題を中心に─」『美術史』vol.177、美術史學會、2014年1]0月、pp.116-132