浅沼一
浅沼一 七段 | |
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名前 | 浅沼一 |
生年月日 | 1924年12月18日 |
没年月日 | 2011年8月10日(86歳没) |
プロ入り年月日 | 1950年4月1日(25歳) |
引退年月日 | 1958年(33歳) |
棋士番号 | 56 |
出身地 | 東京府八丈島(現:東京都八丈町) |
所属 | 日本将棋連盟(関西) |
師匠 | 小泉雅信八段 |
段位 | 七段 |
棋士DB | 浅沼一 |
順位戦最高クラス | C級2組 |
2017年8月23日現在 |
浅沼 一(あさぬま はじめ、1924年12月18日 - 2011年8月10日[1])は、将棋棋士。小泉雅信八段門下。棋士番号は56。東京府八丈島(現:東京都八丈町)出身。
棋歴
終戦後、順位戦が始まり、第4期(1949年度)順位戦では東西のC級乙組で三段以下が合計4名参加した。当時24歳で東の二段だった浅沼もその一人である(ほかには、東の清野静男三段、西の神田鎮雄三段・増田敏二二段)。浅沼は四段に飛び昇段して、翌期(第5期)の順位表に載った。
順位戦での上記を含む最初の6年間は指し分け(勝ち負け同数)や勝ち越しがあり5割前後の勝率であったが、7年目に著しく負けがこみ、予備クラス(現在の奨励会三段リーグやフリークラスに相当)に陥落。当時は、まだ降級点のようなクッション的な制度がなく、1期の成績不振ですぐ降級であった。
その後、予備クラスで5期(2年半)指して引退。まだ33歳であった。ちなみに、5期目では予備クラスに初めて上がってきた17歳の内藤國雄と2局指して2敗している。
引退後も日本将棋連盟に所属[2]。2004年、盤寿(数えの81歳)を迎える。
2011年8月10日、脳梗塞のため死去。86歳没[1][3]。
昇段履歴
脚注
- ^ a b 浅沼一氏=将棋棋士七段 : おくやみ : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)[リンク切れ]
- ^ 引退しても連盟を退会せずに所属し続けるケースがほとんどである。
- ^ “浅沼 一七段が死去|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月23日閲覧。