津田毅一

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津田毅一

津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日1869年1月18日) - 昭和12年(1937年10月5日[1])は、衆議院議員(新政会)、弁護士

経歴[編集]

上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。

1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。その後、台南庁長、嘉義庁長を歴任し、在任中はペストの撲滅に尽力した。1916年大正5年)に退官した後は、弁護士を開業した。

1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明吉植庄一郎木村政次郎関和知鵜沢宇八柏原文太郎磯野敬加瀬禧逸土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し[2]、同月に実施された再選挙で当選した[3][4]

日本コナミルク株式会社の取締役を務めた他、関子嶺軌道株式会社代表、新高炭鉱株式会社代表、関子嶺工業株式会社代表、房州漁業株式会社取締役、台湾土地開拓株式会社監査役、台湾総督府評議会員に就任した[5]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』、衆議院事務局、1940年
  2. ^ 『官報』第1619号、大正6年12月24日。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』407頁。
  4. ^ 『官報』第1622号、大正6年12月27日。
  5. ^ 『昭和十六年度版 拓務内外紳士録』、中央情報社、1941年。
  6. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

参考文献[編集]

  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。