津下精斎

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津下精斎(つげ せいさい、文政9年11月2日1826年11月30日) - 1899年明治32年)8月4日)は幕末明治岡山藩の医師。幼名は常(恒)太、後に来吉。別号は松籟軒、梧隠居[1]

備前国沼村で代々医者を務める津下古庵家に生まれ、岡山沼本家に医術を学んだ後、大坂緒方洪庵に師事し、明治初年岡山藩医学館に出仕した。

弟に大学東校教授島村鼎甫、一門に広島大学医学部教授津下健哉

生涯

文政9年(1826年)11月2日、備前国上道郡岡山県岡山市東区沼)に五代目津下古庵の長男として生まれた[1]

天保5年(1834年)2月、岡山油町沼本寿庵に入門し、来吉と改めた[2]。なお、津下家は百姓身分であり、表向き医術の世襲は禁じられていたため、規定通り病気で農作業ができないことを理由に届け出ている[3]弘化元年(1844年)寿庵の死後、次代沼本貞玄に学び[2]嘉永2年(1849年)2月実家に戻った[3]

緒方洪庵入門

安政5年(1858年)7月22日大坂緒方洪庵に入門した[3]文久2年(1862年)緒方洪庵、石井宗謙等と中国・四国地方を旅し、4月16日精斎実家に立ち寄り、洪庵は沼村名主内藤弥八郎、泰蔵を診察し、それぞれ心気症・痔血、胃病と診断した[3]。21日足守で母の米寿を祝った際、精斎は坊主頭に鉢巻でタコ踊りを披露したという[2]。帰坂後8月緒方洪庵は江戸幕府奥医師として迎えられ、精斎も帰藩した。

岡山藩医学所

東北戦争に従軍したといい[1]、当時幕府医官だった弟島村鼎甫との関係とも考えられるが、詳細不明[2]

明治2年(1869年)12月8日御郡医者格、明治3年(1870年)4月17日医学館入学を命じられ、25日子竹五郎と入学した[3]。5月17日教授方試補、7月30日御雇二等教頭兼副直[3]。11月9日修身給を与えられ、士族、員外医学館出仕、病院治療方[3]

この頃の住所は岡山市中山下[2]

晩年

晩年は書画骨董に没頭し[1]、また難波抱節に学んだ都々逸の普及に務めた[2]。1899年(明治32年)8月4日死去し、塔の山に葬られた[1][4]。戒名は宝州院鉄架精斎居士[1]

生前、自らの死因を脳卒中中風と予想し、予め辞世「酒の相手の千人よりも心涙の友ひとり」「花の嵐の頓生菩提あした待たるる身ではない」を用意したが、実際の死因は胃癌だった[2]

親族

  • 父:五代目津下古庵
  • 母:綾(あや) - 赤坂郡牟佐村難波権之輔娘。弘化4年(1847年)2月8日没[2]
  • 弟:島村鼎甫 - 江戸幕府医学所、明治政府大学東校教授。
  • 妹:竜(りふ) 天保10年(1839年)生、御津郡玉柏村守井泰造、後に和気郡片上村前川準に嫁ぎ、明治5年(1872年)没[2]
  • 弟:猪三郎 - 天保12年(1841年)生、安政7年(1860年)楢原村助右衛門養子[2]
  • 継母:多賀 - 栄島氏。明治20年(1887年)11月没[2]
  • 異母妹:貞(てい) - 嘉永5年(1852年)生。国友寛吾を島村家の婿とした後、和気郡吉永町正光院阿部智諦に嫁ぐ[2]
  • 先妻:藤井氏[1]
  • 子:竹五郎 - 明治11年(1878年)1月没[2]
  • 後妻:飛佐子 - 難波常五郎長女。明治28年(1895年)8月没[2]
  • 養子:鎮五郎 - 明治12年(1879年)没[2]
  • 養女:昇 - 明治23年(1890年)没[2]
  • 養子:甫一郎 - 守屋庸庵次男。陸軍軍医となり離縁[2]
  • 養子:寿 - 児島氏。津下家を継ぐ。愛媛県立松山病院院長[2]

なお、明治2年(1869年)横井小楠暗殺に参加した津下四郎左衛門は沼村名主家の出身だが、直接の関係にはない[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 河上市蔵撰墓表『備作医人伝』、岡山県医師会、1959年 p.229-230
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 津下健哉「維新を生きた村医者の生涯 ―津下精斎の場合」『適塾』第28巻、1995年12月
  3. ^ a b c d e f g 内藤二郎「津下精斎兄弟」『駒大経営研究』第4巻第1号、1972年8月
  4. ^ 日本掃苔録ブログ版:塔の山墓地