河野通有

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河野通有
河野通有/『蒙古襲来絵詞』後巻絵十一
時代 鎌倉時代中期
生誕 建長2年(1250年)?
死没 応長元年7月24日1311年8月28日
別名 六郎
戒名 長福寺殿天心紹普大居士
官位 対馬守
幕府 鎌倉幕府
主君 惟康親王
氏族 河野氏
父母 父:河野通継
兄弟 河野通氏河野通泰土居通成
江戸重長
河野八郎(嫡子、早世?)、河野九郎通盛、他多数
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河野 通有(こうの みちあり)は鎌倉時代中期の伊予国久米郡石井郷(現在の愛媛県松山市)の武将。鎌倉幕府御家人河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。

出自

承久の乱で一族が壊滅した河野氏であったが、鎌倉幕府の重鎮・北条時政の娘を母とした通久の一族だけが生き延び、河野氏の勢力は衰え、その家名を細々と伝えていた。その通久の孫として建長2年(1250年)に生まれた。

伊予国風早郡善応寺(現在の松山市)の双子山城に勢力を置き、また六波羅探題の命を受け、国内の水軍を束ねて伊予国の海上警備の任に当たっていた。

元寇での活躍

元寇に際し、文永の役の後に再度の襲来に備えて北九州に出陣した。

弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。

この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。

通有は志賀島の戦いにおいて叔父の河野通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。

恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。『予章記』によれば肥後国下久具村(現熊本県宇城市)も恩賞地として賜ったという。

蒙古襲来絵詞の河野家

蒙古襲来絵詞
河野通有供養塔

竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には、季長が負傷した通有を見舞った様子が描かれており、絵巻の注釈に河野の家では合戦が落居しない間は烏帽子を着けないこと、通有の直垂平家との戦いで祖先の河野通信源氏の味方に参上した時着けていたものである事が描かれている。

縁側には通有の嫡子河野の八郎が座っており、庭には通有の旗指しが控えている。奧の妻戸は本来なかった所を絵師が書き誤ったものという注釈がある。

関連作品

関連項目