河原月夫

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獲得メダル
日本の旗 日本
柔道
アジア選手権
1970 高雄 93kg級
1981 ジャカルタ 95kg級
1970 高雄 無差別級

河原 月夫(かわはら つきお、1949年6月8日 - )は日本柔道家(8段)。愛知県出身。

得意技の内股を武器に現役時代はアジア選手権優勝や全日本選手権準優勝という成績を残し、モスクワオリンピックでは幻の日本代表に。引退した現在は愛知県警警察学校にて指導員を務める。

経歴

愛知県刈谷市出身[1]。父親の大玄(8段)の影響で、物心付いた時には既に柔道衣を着るのが日課になっていた[1]中京商業高校に入学した頃から本格的に柔道に打ち込んで監督の武山貞一に師事し[1]、高校2年次の1966年には青森県で開催されたインターハイの中量級クラスにおいて、決勝戦で富山県代表の津沢寿志を破りチャンピオンに輝いた。

高校卒業後は明治大学に進学。師範の姿節雄曽根康治の両名や監督の神永昭夫のほか、後に世界チャンピオンとなる篠巻政利須磨周司等の先輩にも鍛えられ[1]、団体戦で全日本学生優勝大会で2度の優勝(1968,71年)を経験したほか、個人戦でも全日本学生選手権アジア選手権で優勝を果たした。大学3年次の1970年には体重無差別で柔道日本一を決める全日本選手権に出場すると、本命とみられていた佐藤宣践園田勇らを破り[2]、決勝戦こそ大学OBの篠巻政利(富士製鉄)の前に優勢負けを喫したものの、学生ながら準優勝という好成績を残している。 一方で、期待された大学4年の1年間は病床に伏し、大会での結果は残していない[1]

大学卒業後は故郷・愛知にて警察官となり、名古屋矯正管区伊藤秀雄に師事した[1]。 その後も全日本選手権で3位に2度食い込んだほか、95kg以下級では全日本体重別選手権講道館杯などの国内大会を制し、同階級の第一人者として活躍した。31歳で迎える1980年モスクワオリンピックには日本代表として選出されるも、政治問題に端を発する日本の不参加により、オリンピックの舞台に上がる事は無かった[3]

現役を引退後は愛知県警察本部の教養化課に勤務し、警察官への柔道指導に汗を流す[1]。雑誌『近代柔道』のインタビューで、「世界に 誇れる安全で明るい日本をつくる事を念頭に、後進の指導に当たっている」と語っていた[1]。 なお、戦後に父の大玄が創設し、月夫自身も幼少時に育てられた名古屋市南区の「河原道場」は、現在月夫の長男(6段)が継いで、多くの小中学生らを育てている[4]

主な戦績

- アジア選手権(無差別級) 2位
- 全日本選手権(無差別級のみ) 2位
- 全日本学生選手権 優勝
- 全日本選抜体重別選手権(95kg級) 優勝
- 全国警察選手権(無差別級のみ) 優勝
- 全日本選抜体重別選手権(95kg級) 3位
- 講道館杯(95kg級) 3位

その他、パリ国際(1976年)やカナダ国際(1980年)などで優勝歴あり

関連項目

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h “わたしの得意技 –河原月夫6段-”. 近代柔道(1982年12月号) (ベースボール・マガジン社). (1982年12月20日) 
  2. ^ “講道館機関誌『柔道』で振り返る全日本柔道選手権大会60年 -昭和45年/優勝 篠巻政利5段-”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み- (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟). (2009年4月29日) 
  3. ^ “モスクワの地で再確認した28年ぶりの友情、そして柔道の活動を通した世界平和!”. 柔道教育ソリダリティー ホームページ (特定非営利活動法人 柔道教育ソリダリティー). (2008年5月18日). http://www.npo-jks.jp/activity/2008/05/000184.html 
  4. ^ “入門案内”. 河原道場オフィシャルサイト (河原道場). (2007年10月11日). http://kawaharadojo.seesaa.net/category/7154234-1.html 

外部リンク

  • 河原月夫 - JudoInside.com のプロフィール(英語)