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水野忠光

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水野忠光
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和8年8月20日1771年9月28日
死没 文化11年4月4日1814年5月23日
別名 織之助(幼名)、忠光
戒名 珍諦院殿寛豊是道大居士
墓所 茨城県結城市の万松寺
佐賀県唐津市和多田雄岳山
官位 従五位下、式部少輔
幕府 江戸幕府
肥前国唐津藩
氏族 水野氏
父母 父:水野忠鼎、母:水野忠辰の娘
兄弟 忠光内藤正国忠方忠寛米倉昌俊
内藤政環
正室:浅野重晟の娘・勝子
忠邦内藤正縄堀直哉跡部良弼
駒木根政任水野忠勧長谷川正道
娘(大久保忠保正室)、娘(小笠原長昌正室)
娘(内藤政民正室)、娘(堀親義正室)
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水野 忠光(みずの ただあきら / - ただあき)は、肥前唐津藩の第3代藩主。忠元系水野家10代。水野忠邦の実父である。

明和8年(1771年)8月20日、唐津藩第2代藩主・忠鼎の長男として生まれる。天明5年(1785年)に従五位下、式部少輔に叙任される(のち転任)。文化2年(1805年)9月5日の父の隠居により家督を継いで藩主となる。藩政においては父が用いた家老の二本松義廉を罷免して、自ら親政を行なって改革を進めたが効果は無く、文化9年(1812年)に次男・忠邦に家督を譲って隠居した。

文化11年(1814年)4月4日に江戸で死去。享年44。