棚尾町
たなおちょう 棚尾町 | |
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1917年の棚尾村 | |
廃止日 | 1948年4月5日 |
廃止理由 |
新規合併 |
現在の自治体 | 碧南市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 碧海郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
6,973人 (1947年10月1日) |
棚尾町役場 | |
所在地 | 愛知県碧海郡棚尾町 |
座標 | 北緯34度53分13秒 東経136度59分46秒 / 北緯34.88689度 東経136.99606度座標: 北緯34度53分13秒 東経136度59分46秒 / 北緯34.88689度 東経136.99606度 |
ウィキプロジェクト |
現在の碧南市の南東部(源氏神明町、若宮町、弥生町、志貴町、源氏町、汐田町、春日町、栗山町、幸町、善明町、棚尾本町)に該当する(詳しくは碧南市の地名#旧棚尾町を参照)。
地名の由来
棚尾の地名は、「平坦で棚のような台地の、尾のような先端」に由来するとされる[1]。棚尾という地名の初出は、「蔭涼軒日録」1487年(長享元年)11月8日の条にある「就当院末寺大浜多那和之興聖寺看坊職事」であり、当時は大浜村の一部であったとみられる[2]。
歴史
近世
1625年(寛永2年)頃、碧海郡大浜村より分立して棚尾村となった。江戸時代末期、棚尾村は沼津藩領、寺社領などであった。村は南北に細長い形をしており、南(本郷)・中(東浦・中山)・北(西山・東山)の三つの組に分かれていた。1876年(明治9年)に中組のうち東浦を平七村への編入により失うと、北組の西山・東山は飛地となり、1883年(明治16年)に分離して北棚尾村となる。中山から幡豆郡中畑村(現西尾市)への渡しは、百々渡(どうどのわたし)と呼ばれた。初代の棚尾橋は1890年(明治23年)に完成した[3]。
近代以後
- 1876年(明治9年) - 棚尾村中組のうち東浦が平七村に編入される。
- 1883年(明治16年)5月8日 - 棚尾村北組の東山・西山[4]が分立し、北棚尾村となる。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行によって碧海郡棚尾村が発足。
- 1924年(大正13年)1月1日 - 棚尾村が町制施行して棚尾町が発足。
- 1948年(昭和23年)4月5日 - 大浜町、新川町、旭村と合併して碧南市が発足。同日棚尾町は廃止。
教育
小学校
中学校
交通
名所・旧跡
娯楽
出身者
- 山中信天翁 - 幕末維新期の文人。1822年(文政5年)碧海郡棚尾村東浦(のち碧海郡旭村)生まれ。1885年(明治18年)死去。
- 服部長七 - 人造石工法を発明した土木技術者。1840年(天保11年)碧海郡棚尾村西山(のち碧海郡新川町)生まれ。
- 藤井達吉 - 近代工芸を革新した芸術家。1881年(明治14年)碧海郡棚尾村源氏生まれ。