松平宣維
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄11年5月18日(1698年6月25日) |
死没 | 享保16年8月27日(1731年9月27日) |
改名 | 直郷(初名)→宣維 |
別名 | 宣澄 |
戒名 | 善隆院殿大誉覚海澄心大居士 |
墓所 |
東京都港区虎ノ門の天徳寺 島根県松江市外中原町の月照寺 |
官位 | 従四位下、出羽守、侍従、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出雲松江藩主 |
氏族 | 越前松平家 |
父母 | 父:松平吉透、母:清寿院(松平昌勝の娘) |
妻 |
正室:幻体院(佐竹義処の娘) 継室:天岳院(伏見宮邦永親王の娘) |
子 |
宗衍 養子:長孝 |
松平 宣維(まつだいら のぶずみ)は、出雲松江藩の第5代藩主。直政系越前松平家宗家5代。
生涯
元禄11年(1698年)5月18日、第4代藩主・松平吉透の次男に生まれる。宝永2年(1705年)10月26日、父の死去により家督を継ぐ。初名は直郷(なおさと)。治世では災害による天災から財政難に悩まされ、継室との婚礼資金ですら窮する有様で、婚礼を延期したほどである。このため宣維は藩政改革に取り組む。税制を定免制度に改め、ハゼ・ウルシ・クワ・コウゾ・茶・オタネニンジンの栽培やロウ・蝋燭製造にも着手した。また、出雲の沿岸一帯に異国船が多く出没したため、その打払いにも務めている。その他、踏鞴製鉄を統制下に置き、同業組織である「蹈鞴株」を作らせて先納銀を徴収した。藩札も発行したが、これが原因で後に札騒動が起こった。正徳2年(1712年)2月21日、将軍徳川家宣より偏諱を授かり、直郷から宣維(宣澄とも)に改名、従四位下に叙位、侍従に任官する。また出羽守を兼任する。享保元年(1716年)11月13日、左近衛権少将に転任する。出羽守如元。享保5年(1720年)6月13日、隠岐国の治政を幕府より委ねられ、以後、歴代藩主が相伝した。享保16年(1731年)8月27日に死去した。享年34。跡を長男の宗衍が継いだ。