李厳
李厳(りげん)
- (?-927)五代の後唐の将。前蜀を滅ぼすなど大功を立て、その後も西川に駐屯するが、孟知祥が反乱した際に殺害された。
- (?-234)三国時代蜀の将。本項で解説する。
李 厳(り げん、? - 234年)は、後漢末期から三国時代の政治家・武将。荊州南陽郡の人。字は正方。後に“李平”と改名。子に李豊。『三国志』蜀志に伝がある。
荊州の劉表、益州の劉璋に身を寄せた後、劉備に投降する。劉備にも重用されて諸葛亮とともに遺詔を受け、蜀(蜀漢)の高官に上るも、晩年に失脚した。
生涯
若い頃に郡の官吏となり、才幹の点で賞賛を得た。劉表に取り立てられ、郡県の長をいくつか務めた。
益州との境に近い柹帰の県令であったときに、曹操が荊州に侵攻したため、劉表の死後の混乱する荊州を見限り、益州へ逃れた。劉璋にも取り立てられ、成都県令となり、そこでも有能だとの評判をとった。
後に劉璋の要請により益州入りしていた劉備が劉璋と仲違いを起こし、成都に侵攻した。この時、李厳は劉璋に護軍に任じられ、軍を率いて綿竹関の守備につくことになったが、すぐに劉備に投降し裨将軍に任じられた。
劉備が成都を平定すると、犍為郡太守・興業将軍に任じられた。諸葛亮、法正、許靖、伊籍と共に蜀科の制定に尽力したという(「伊籍伝」)。また、犍為郡の功曹であった楊洪を推挙している。楊洪は諸葛亮の抜擢を受けて、たちまちのうちに李厳と同格の郡太守となったという(「楊洪伝」)。
218年、盗賊の馬秦、高勝らが柹で反乱を起こし、その勢力は数万人に膨れ上がり資中県に到達した。李厳は郡管轄の兵五千人を率い、これを討伐。馬秦、高勝らを処刑し晒し首にし、反乱に参加した人達は再び戸籍に復帰することになった。また、越嶲郡の賊の高定が反乱を起こし、新道県を包囲したときは、李厳はこれを救援し反乱軍を四散させている。この功績により、郡太守のままで輔漢将軍の地位を与えられた。
219年、劉備が漢中を平定すると、群臣達に推挙され漢中王となった。この群臣達の中に興業将軍の李厳の名がある(「先主伝」)。
後に皇帝に即位した劉備は、荊州を占領した呉を討つため東征していたが、呉の陸遜に大敗した。劉備は成都に戻ることが出来ず、白帝城を永安宮と改名しそこにとどまっていた(「先主伝」)。222年、李厳は劉備により永安宮に呼び寄せられ、尚書令に任命される。223年、劉備の臨終の際には枕元に呼ばれ、同じく成都より呼び寄せられた諸葛亮と共に、太子の劉禅を補佐するよう遺詔を受けた。李厳は中都護となり、内外の軍事を統括し、永安に留まり鎮撫に当たる任務が与えられた。劉禅が即位すると、都郷侯・仮節となり、光禄勲の位を付加される。
このころ、李厳は諸葛亮に手紙を送り、王を称して九錫を受けるよう勧めたことがあったという。これは諸葛亮に将来の簒奪を勧めたものとも取れる行為であるが、諸葛亮は返書で「魏を滅ぼし、あなた方と共に昇進の恩恵にあずかることにでもなれば、その時には九の特典どころか十でも受けますよ」と李厳の申し出を受け流す形で拒絶している(『諸葛亮集』)。
226年前将軍に昇進した。諸葛亮は北伐のため漢中に陣営を移したので、後方を李厳に任せるべく、彼の駐屯地を江州に移動させた。永安には陳到を置いたが引き続き李厳が統制するものとした。同年の春、李厳は江州に大城を築いている(「後主伝」)。
このころ、李厳は、魏に投降していた新城の孟達に手紙を送り、ともに劉備の遺詔を受けたことの責任感を痛感している胸のうちを語り、良い協力者を得たいと述べている。諸葛亮も孟達に手紙を送り、李厳の仕事ぶりを賞賛している。
230年、驃騎将軍となった。同年の秋8月に魏の曹真が三方の街道から漢水に向おうとしたため、諸葛亮の命により兵2万人を率い漢中に赴き、政務を取り仕切った。江州は子の李豊が江州都督督軍に任じられ、留守の職務を執ることが許されている。諸葛亮は曹真を撃退した後も、再度の北伐に備えるために李厳を漢中に留め、中都護の官位のまま全ての政務をとりしきらせた。このころに李厳は「李平」と改名した。
231年春、諸葛亮は再び北伐し(「後主伝」)、李厳は軍糧輸送の監督の任務についた。しかし長雨による兵糧輸送の滞りを理由に、参軍の狐忠と督軍の成藩を派遣し、遠征中の諸葛亮にそのことを報告した。ところが、諸葛亮が撤退した後、李厳は撤退したことを諸葛亮の責任にしようとした。さらに劉禅にも上奏し、諸葛亮は敵を誘うために撤退した振りをしているだけと嘘をついた。諸葛亮は李厳の出した手紙を集め、李厳の言葉の矛盾を追及したところ、李厳は罪を認め謝罪した。
諸葛亮は劉禅に対し上奏し、これまで諸葛亮が李厳のいい加減さを知りつつ、才能を惜しんで任用しつづけてきたことを率直に陳謝した上で、李厳を弾劾し、その罪を明らかにすることを求めた。李厳は免官となり、庶民に降格され、梓潼郡に流された。231年秋8月のことである(「後主伝」)。
李厳と同郡の出身者である陳震は以前から李厳のいい加減さを諸葛亮に訴え、重用しないよう忠告していたため、諸葛亮は陳震の言葉を聴かなかったことを後悔したという(「陳震伝」)。
諸葛亮は李厳の地位を剥奪したが、息子の李豊は罪に問わず、手紙を送って父の汚名を返上すべく仕事に励むよう諭している。
李厳は、諸葛亮ならばいずれ自分を復帰させてくれると期待していた。だが234年、諸葛亮の死を聞くと、諸葛亮の後継者たちでは自分が復職することはあるまいと嘆き、まもなく発病し死去した。子の李豊は朱提太守までなった。
評価
劉備は諸葛亮と共に後のことを託すほど重要視している。
諸葛亮は「各部署が流れるように動き、進退に渋滞するところが無いのは、正方の性格による」とその仕事ぶりを賞賛している。
陳震は李厳の人柄について「腹に棘が合って故郷の人も近づけない」と言っている。
陳寿は評にて「才幹により栄達し尊重されたが、その行為を観察し、その品行をたどってみると、災いを得たのは、全て身から出た錆であった」と評価する。
楊戯の書いた季漢輔臣賛ではその終わりを全うしなかったためか、「遺名を受け、後の政治に参与することになったが、意見を述べることも無く、強調すること も無く、道に外れた言動をなし、世の中から追放され、任務も功績も失った。」と厳しく評価している。
三国志演義
小説『三国志演義』では劉備と対峙し、黄忠との一騎打ちでも引き分ける実力を見せるが、諸葛亮の策によって捕らえられ、劉備の説得により降伏する。
参考文献
- 「正史 三国志 5 蜀書」 (陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7