杉常道
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(杉百合之助から転送)
時代 | 江戸時代後期(幕末) |
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生誕 | 文化元年2月23日(1804年4月3日) |
死没 | 慶応元年8月29日(1865年10月18日) |
別名 | 通称:百合之助、号:恬斎、字:伯兪 |
墓所 | 山口県萩市の椿東椎原 |
主君 | 毛利斉元→斉広→慶親(敬親) |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 杉氏 |
父母 | 父:杉常徳 |
兄弟 | 常道、吉田大助、玉木文之進 |
妻 | 児玉太兵衛養女・滝(村田右中娘) |
子 |
民治、吉田松陰、 千代(芳子、児玉祐之室)、 寿(楫取素彦室)、艶、 美和子(文)(久坂玄瑞室→楫取素彦室)、敏三郎 |
杉 常道(すぎ つねみち)は、江戸時代後期(幕末)の長州藩士。杉民治、吉田松陰、楫取美和子らの父。
生涯
[編集]文化元年(1804年)、無給通組士の杉常徳(七兵衛)の子として誕生する。文政7年(1824年)に家督を相続し、翌年に児玉太兵衛の養女を娶る。
家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。おまけに三男・敏三郎は発声が不自由であった。天保3年(1830年)に記録御次番役となり、翌年に呉服方になる。天保6年(1835年)、弟・吉田大助が死去したため、吉田家(家禄57石)の家督を次男の寅之助(松陰)に相続させた。
安政元年(1855年)、密航を企てた松陰が生家預かりとなり、常道宅に蟄居することとなる。その際、松陰は父や近親者に『孟子』や『武教全書』を講じる。安政2年(1856年)、松陰の処分が解け、松下村塾の主宰者となると、長男・修道(梅太郎)と共に最初の生徒となる。安政6年(1859年)5月に松陰が江戸護送となると、藩職を罷免され万延元年(1860年)に家督を修道に譲るが、文久3年(1863年)に当職(国相府)内用方になり、盗賊改方を兼務する。慶応元年(1865年)3月に辞職しほどなくして死去した。
出典
[編集]- 『三百藩家臣人名事典 6』新人物往来社