木庭二郎

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木庭二郎
生誕 (1915-03-07) 1915年3月7日
日本の旗 日本東京
死没 (1973-09-28) 1973年9月28日(58歳没)
 デンマークコペンハーゲン
国籍 日本の旗 日本
研究分野 核物理学
研究機関 京都大学、ニールス・ボーア研究所
出身校 東京帝国大学
プロジェクト:人物伝
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木庭二郎(こば じろう、1915年3月7日 - 1973年9月28日)は昭和期の物理学者核物理学を専攻。

1945年東京帝国大学を卒業し、大阪大学助教授等を経て、京都大学教授となる。1963年コペンハーゲン大学ニールス・ボーア研究所教授となるが、1973年コペンハーゲンコレラにより客死。

朝永振一郎繰り込み理論の研究などに協力し、高エネルギー粒子の衝突における多重発生現象を研究した。

坂田昌一の「凝集力場理論」の検証において計算を間違えた責任を取って、丸坊主になったエピソードは有名である[1]。これは、それだけ朝永振一郎に信頼されていたと言える。

兄は文芸評論家の中村光夫(本名 木庭一郎)。 弟、木庭三郎も理論物理学者(専門は物性論)。

外部リンク

脚注

  1. ^ くりこみ理論のころ