智顗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ZéroBot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月8日 (火) 09:00個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: no:Zhiyi)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

538年 - 597年11月24日
尊称 智者大師
生地 草州華容県(湖南省
没地 西門石城寺
宗派 天台宗(中国)
寺院 天台山修禪寺(後の国清寺)
南岳慧思
弟子 章安灌頂
著作 『維摩經玄疏』、『四教義』
(以下は、章安灌頂による筆録)
天台五小部」・「天台三大部
テンプレートを表示

(ちぎ、Zhi-yi)(538-597) は、中国僧侶天台宗の実質的な開祖であるが、慧文慧思に次いで第三祖とされている(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。智者大師ともいう。

事績

潁川の陳氏として、草州華容(湖南省華容県)に生まれた。18歳で出家し、天嘉元年(560年光州大蘇山で慧思に学ぶ。

光大2年(568年)から7年間、金陵瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義。

太建7年(575年)からは浙江省天台山に登って天台教学を確立した。南朝の同族であるため、皇帝や貴族層からの信任が厚く、要請により、至徳2年(584年)再び金陵に出て、光宅寺で『法華文句』を講義した。

陳末の兵乱を廬山に避け、開皇11年(591年の晋王であった楊広(のちの煬帝)の懇請で晋王に菩薩戒、「總持」の法名を授け、晋王から「智者大師(だいし)」の号を賜わった。また、三論宗の嘉祥大師吉蔵とも交遊した。

その後、荊州玉泉寺を開創して『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』の天台三大部を講義した。ほかにも『観音玄義』、『観音義疏』、『金光明玄義』、『金光明文句』、『観無量寿経疏』の天台五小部を講義した。いずれも弟子章安灌頂により筆録される。

10年ぶりに天台山に帰り、国清寺を修復して教団の生活規定を制定した。晋王楊広の要請で『維摩経疏』を著述し、揚州に向かう途中、(596年)西門石城寺で入滅。

資料・伝記

著書

  • 菅野博史訳注 『法華玄義』 全3巻、レグルス文庫:第三文明社、新装版刊
    • 『新国訳大蔵経 中国撰述部 法華・天台部 法華玄義1』 大蔵出版、2011年9月-刊行中(全3分冊)。
    • 菅野博史 『「法華玄義」入門』 第三文明社、新装版(2007年)刊
    • 菅野訳注 『法華文句』 全4巻、レグルス文庫:第三文明社
    • 菅野訳注 『一念三千とは何か 摩訶止観-正修止観章.現代語訳』 レグルス文庫(抜粋訳)
  • 新田雅章注・解説 『摩訶止観 〈佛典講座25〉』 大蔵出版、カバー装で新版刊
  • 多田孝正注・解説 『法華玄義 〈佛典講座26〉』 大蔵出版、同上  
  • 関口眞大校注 『摩訶止観』 上下巻:岩波文庫、※他の訳注はリンク先を参照 
    • 関口校注 『天台小止観』 岩波文庫 
    • 関口訳注 『現代語訳 天台小止観』 大東出版社、新装版刊

関連項目

師:南岳慧思天台宗(中国)弟子:章安灌頂