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日野江城

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日野江城
長崎県
日野江城の航空写真 (1974年撮影・国土航空写真)
日野江城の航空写真
(1974年撮影・国土航空写真)
別名 日之江城、日ノ江城、火ノ江城、日ノ枝城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 不明
築城主 藤原(有馬)経澄
築城年 建保年間(1213年1219年
主な改修者 有馬晴信
主な城主 有馬氏
廃城年 元和2年(1616年
遺構 石垣、空堀
指定文化財 国の史跡
位置 北緯32度39分36.04秒 東経130度15分9.97秒 / 北緯32.6600111度 東経130.2527694度 / 32.6600111; 130.2527694
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日野江城(ひのえじょう)は、肥前国高来郡有間庄(長崎県南島原市北有馬町戊谷川名)にあった日之江城日ノ江城火ノ江城日ノ枝城とも記される。国の史跡

概要

南島原市のほぼ中央、有馬川河口付近の小高い丘にある。南には有馬川が流れ、東には大手川が流れている。縄張りは北西に三の丸、東に二の丸を配し中央の丘頂部に本丸が置かれた連郭式平山城である。

平成7年(1995年)より平成12年(2000年)までの間に4次にわたる発掘調査が行われた。この際に、他には安土城にしか見られない直線階段や、海外の技術を取り入れた石組み、金箔を施した瓦などが出土した。先進性や豊臣政権と密接な関係を持っていたことを窺い知ることができる。

遺構としては現在、石垣・空堀が確認できる。

沿革

鎌倉時代前期の建保年間(1213年1219年)に高来郡を領する藤原経澄が築城した。 経澄は藤原北家藤原純友の子孫(もしくは平氏)で築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。

有馬氏は当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかった。貴純の時代になると半島内の諸勢力を制圧し戦国大名へと成長していった。貴純は日野江城の支城として原城を築城している。晴純の時代に有馬氏の版図は最大となり21万石を領するまでに成長した。しかし、後ろ盾となっていた大内氏が滅亡すると龍造寺氏の圧迫を受けるようになった。13代目当主の晴信キリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。前述の発掘調査で出土した遺構は晴信の時代のものである。

江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。しかし、慶長17年(1612年)晴信は岡本大八事件に連座した罪により甲斐国で切腹となった。嫡男直純が後嗣となったが慶長19年(1614年)に日向国延岡城に移封となり、有馬氏は約400年間にわたる在城に別れを告げた。

有馬氏が去り元和2年(1616年)に松倉重政が入城するまでの間は天領となった。この間は鍋島氏大村氏松浦氏の肥前の諸大名が分担して城を警固した。しかし、松倉氏は入封後、日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とし歴史の幕を閉じた。

昭和57年(1982年7月3日、国の史跡に指定された。平成7年(1995年)より平成12年(2000年)まで発掘調査が行われた。平成18年(2006年)初頭には、過疎による城地の農地利用の放棄や、来訪者の減少により、荒廃し約3割近くの箇所で修復が必要であることが明らかになった為、合併前の北有馬町が修復を兼ね、桜の名所にしようと城地を公園化整備したが、工事を行った際に損壊したものと指摘を受け工事を中止、現在、長崎の教会群とキリスト教関連遺産としての城地整備の課題が残されている。

ちなみに城跡には八天狗が祀られ、島原の乱のあと入植した人々により、城跡は果樹園や畑として整備されていた。

参考文献

  • 西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 2000年 428ページ

関連項目

外部リンク