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新町遊廓

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新町遊廓(しんまちゆうかく)は、大坂唯一の江戸幕府公認の遊廓花街)。大坂新町(現在の大阪市西区新町)に存在した。

概要

豊臣秀吉大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。 その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。

東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と廓の周囲には堀がめぐらされており、出入りができる場所は西大門や東大門などに限定されていたとされる。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女太夫など)がいたことが確認されている。

明治期以降

新町演舞場(現大阪屋本社社屋)

明治五年の遊女解放令布告によって外部との交通が自由化し、また松島遊廓へ歓楽地が移行したことや、明治期の大火で廓の多くが消失したことなどによって新町周辺はしだいに商店街化していった。太平洋戦争時の大阪大空襲によって一帯が焼け野原となっており、戦後は一般的な街並みとして都市化されたため、現在当時の面影は残っていない。しかし、大阪の非営利団体「なにわ堀江1500」が当時の資料を参考に新町遊廓の模型を制作、大阪市立図書館で展示した。[1]

文学、舞台における新町遊廓

新町遊廓は、井原西鶴近松門左衛門をはじめ数多くの文芸作品の舞台となるなど、江戸期大坂文化を語る上で欠かせない場所のひとつでもあった。

参考文献

  • 日本歴史地名大系28『大阪府の地名I』(平凡社)
  • 角川日本地名大辞典『27 大阪府』(角川書店)

脚注

  1. ^ 大阪日日新聞 2009年12月5日号記事より

関連項目

外部リンク