文室大市
文室 大市(ふんや の おおち、慶雲元年(704年) - 宝亀11年11月28日(780年12月28日)は、奈良時代の皇族・公卿。はじめ大市王を名乗るが、文室真人姓を賜与され臣籍降下。名は邑知・邑珍とも記される。天武天皇の孫。一品・長皇子の七男。官位は正二位・大納言。
経歴
天平11年(739年)無位から従四位下に直叙され、のち刑部卿・内匠頭を歴任する。
天平勝宝3年(751年)従四位上に叙せられる。翌天平勝宝4年(752年)兄・浄三とともに文室真人姓を賜与され、臣籍降下された。天平勝宝6年(754年)大蔵卿、天平宝字元年(757年)正四位下・弾正尹、天平宝字3年(759年) 節部卿に叙任。天平宝字5年(761年)には故・光明皇太后の一周忌御斎会の供奉の功労により正四位上に昇叙された。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の直後に民部卿に任ぜられる。天平神護元年(765年)正月に従三位に叙せられて公卿に列し、翌天平神護2年(766年)参議に任ぜられた。
神護景雲4年(770年)称徳天皇崩御に際して御装束司を務める。称徳天皇崩御後の皇嗣選定にあたり、右大臣・吉備真備により兄・浄三に次いで候補者に推されるが、藤原氏に推戴された白壁王(のち光仁天皇)に敗れたともされる[1]。宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴い正三位・中納言、翌宝亀2年(771年)には左大臣・藤原永手の死去と右大臣・吉備真備の致仕により従二位・大納言へと、光仁朝初頭に急速に昇進を果たした。宝亀5年(774年)7月老齢を理由に致仕を願い出て許され[2]、11月正二位に叙せられた。宝亀11年(780年)11月28日没。享年77。最終官位は前大納言正二位。
天平勝宝年間以降、皇族や臣籍降下した子孫で罪を得る者が多かったが、大市は剃髪して僧となることで自らの身を全うしたという[3]。
系譜
- 父:長親王
- 母:不詳
- 妻:錦部針魚女[4]
- 男子:文室波多麻呂
- 男子:文室久賀麻呂
- 男子:文室真老
- 男子:文室八嶋
- 男子:文室高嶋