戸田極子

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戸田極子
続柄 岩倉具視第三女子

出生 (1858-01-09) 1858年1月9日
死去 (1936-03-11) 1936年3月11日(78歳没)
東京府東京市
配偶者 戸田氏共
父親 岩倉具視
母親 岩倉槇子
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戸田 極子(とだ きわこ、1858年1月9日安政4年11月25日[1] - 1936年昭和11年)3月11日[2])は、日本の華族。岩倉具視公爵令嬢。戸田氏共伯爵夫人。

優雅な物腰と美貌から陸奥亮子と共に「鹿鳴館の華」といわれた。

生涯

安政4年11月25日(1858年1月9日)、岩倉具視の三女として京に生まれる。母は側室で、後に正妻(継室)となった槇子(まきの方)。具視にとりわけ深く愛されたという母・槇子は美しい女性で、極子も母譲りの美貌に成長した。

明治3年(1870年)12月、美濃国大垣藩知事・戸田氏共と婚約。翌明治4年(1871年)2月、東京で結婚式を挙げた。極子は数えで14歳、氏共は17歳であった。氏共は洋学を志し大学南校に在学していており、結婚直後にアメリカ留学の許可を得た。氏共は同年4月に日本を発ち、以後アメリカの他5か国、5年間に及んで留学した。新妻の極子は実家の岩倉邸に帰り、琴や華道、茶道などの諸芸に励み、また英語やダンスを学んだ。なお、この頃に極子の実兄達もアメリカに留学している。

明治9年(1876年)、夫・氏共が帰国。明治10年(1877年)に長女孝子、明治12年(1879年)に二女米子、明治14年(1881年)に三女幸子と3人の娘をもうけた。極子は評判の美女であったのみならず、早くから教育を受けたため英語とダンスに堪能であり、外国人たちとも物怖じせず交わることが出来る女性であった。このため、明治10年代後半の鹿鳴館時代において、陸奥亮子と共に「鹿鳴館の華」と呼ばれた。

明治20年(1887年)4月22日、首相の伊藤博文が官邸で開催した仮装舞踏会に出席、夫・氏共は太田道灌に、極子は山吹を捧げる賤女に扮した。この後しばらくして、伊藤博文が極子に関係を迫ったとの醜聞が新聞で報道された。

同年10月8日、夫・氏共はオーストリア=ハンガリー全権公使に任命され、一家でオーストリアのウィーンに移った。このウィーン滞在中、作曲家のブラームスとも交流し、ブラームスは極子が直に弾く筝曲を聴いたのではないかといわれている[注釈 1]。明治23年(1890年)に日本に帰国した。

晩年、家を継いだ二女・米子が早世したため、孫を引き取って養育した。

昭和11年(1936年)3月11日、氏共の死から1ヶ月経たないうちに中風のため死去。

令和3年(2021年)6月25日、女性音楽家の評伝に定評のある音楽評論家、萩谷由喜子が戸田極子の初の本格評伝『ウィーンに六段の調~戸田極子とブラームス』を中央公論新社より出版して、戸田極子の波瀾の生涯と音楽的業績を明らかにするとともに、伊藤博文とのスキャンダルの真相も解明した。さらに、極子の遠い末裔が現在、ウィーンフィルのメンバーとして活躍する秘話も紹介している。

家族

脚注

注釈

  1. ^ ピアノ教師として公使邸に出入りしていたボクレットが日本の民謡をピアノ用に採譜した楽譜『日本民謡集』を出しているが、ブラームスの遺品の中に、ブラームス自身の書き込みのある『日本民謡集』が見付かっている。書き込みは「六段」「乱れ」「春雨」などにあり、演奏している筝を直接聴きつつ書き込んだと思われることから、山田流の筝の名手であった極子が演奏を披露したのではないかと言われている(関東大震災により戸田邸が全焼したため、上記の楽譜以外に確証といえるものは残っていない)。この出来事を題材として、日本画家・守屋多々志は「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」(平成4年第77回院展出品、大垣市守屋多々志美術館所蔵)を描いた。

出典

  1. ^ 青山長格編『華族鑑 : 新刻』(1894年)
  2. ^ 東京朝日新聞』1936年3月12日夕刊

参考文献

  • 『カメラが撮らえた幕末三〇〇藩 藩主とお姫様』p130-p134 (新人物往来社、2012年)ISBN 9784404042149
  • 『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993年)ISBN 4820571281