張角

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張 角(ちょう かく、? - 184年)は、太平道の教祖で冀州鉅鹿(現在の河北省平郷県)の人。

正史における張角

姓名 張角
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 184年中平元年)
字・別号 大賢良師(自号)
本貫・出身地等 冀州鉅鹿
職官 天公将軍〔自称〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 〔独立勢力〕
家族・一族 弟:張宝 張梁

自ら大賢良師と称し、太平道の信者を集めて養っていた。平伏して罪を懺悔させたり、符水の飲ませることで信者の病を癒したため、人々の信奉を集めた。10余年のうちに8つの州に数十万人の信者を獲得するに至ったため、信者を36の「方」に属せしめ、それぞれの方に渠帥を置いて管轄させた。表面的には善道をもって天下を教化していたが、内部では結託して黄天の世の中を作ろうと画策していた。やがて

蒼天已死
黃天當立
歲在甲子
天下大吉

というスローガンを掲げ、洛陽の城門や州郡の役所にチョーク (岩石)で「甲子」の字を書いて造反をアピールした。

光和7年、人身御供を捧げて天を祭り、一斉に蜂起して州郡の役所を焼き払い長官を殺害し、集落を掠奪した。そして張角は天公将軍と称した。しかし光和7年の夏以降は、後漢の将皇甫嵩朱儁らの活躍により急速に乱が治まっていった。(詳細は黄巾の乱を参照)張角は広宗に拠って抵抗したが、10月に広宗は陥落した。この時張角は既に病死していたため、棺を暴いて屍を戮刑にし、首は洛陽で梟首された。

この後も黄巾を名乗る蜂起は各地で続いた。さらに、北宮伯玉・韓遂張燕・張修など黄巾以外の反乱軍も数多く蜂起し、もはや後漢政府の手に負えなくなった。この事件以降、後漢の権威は地に落ちた。

やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の)に、孫権(後の)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。

三国志演義の大賢良師(太平道人)にいたるまで

小説『三国志演義』では、張角・張宝張梁の3兄弟は「不第秀才」(郷試に合格していない秀才 (科挙))という設定である。ある日山に薬を採集しに行ったところ南華老仙という人物に会い、「太平要術」3巻を授けられ、「まさに天に代わりて宣化し、あまねく世人を救うべし。」との使命を与えられる。また、もし悪用すれば、必ず報いを受けるだろうと警告される。これにより風雨を呼ぶ能力を身につけ、「太平道人」と号した。中平元年正月(歴史上の中平元年は12月からのため、この年月は存在しない。)に疫病が起こると、張角は符水をもって人々の病を癒し、「大賢良師」と号すことになる。

その後、史実通りに黄巾の乱を起こし、乱の最中に死んでいる。

関連項目


参考文献