式明親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Meine Libe (会話 | 投稿記録) による 2022年1月18日 (火) 10:35個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:醍醐天皇の子女を追加 (HotCat使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

式明親王
続柄 醍醐天皇第六皇子

全名 式明(のりあきら)
身位 三品・親王
出生 延喜7年(907年
死去 康保3年12月17日967年1月30日)(享年61)
配偶者 藤原玄上
子女 源親頼源親繁
父親 醍醐天皇
母親 源和子
役職 中務卿
テンプレートを表示

式明親王(のりあきらしんのう、延喜7年(907年) - 康保3年12月17日967年1月30日))は、平安時代中期の皇族醍醐天皇の第六皇子。官位三品中務卿

経歴

醍醐朝延喜11年(911年)異母兄・克明や同母弟・有明らとともに親王宣下を受ける。延喜21年(921年)兄の重明常明や弟の有明とともに清涼殿において元服する。

のち、大宰帥中務卿を歴任し、村上朝天徳3年(959年)には帯剣を許されている。

応和元年(961年)次男の親繁王前武蔵権守源満仲の邸宅に強盗に押し入る。満仲の訴えを受けた検非違使から事の次第を伝えられ親繁の引き渡しを求められるが、式明親王は「親繁は邸内にいるが重い痢病を患って起居に堪えない。回復すれば引き渡す」旨を上申する。しかし、宣旨により官人が派遣されて式明親王は家宅捜査を受けたが、親繁を始め一味は逃亡済であった。捜索の手は他の皇族にまで及び、成子内親王の邸宅にて一味の一人である紀近輔がようやく捕らえられたが、親繁王の行方は知れなかった。結局、式明親王は親繁王を引き渡さず、悪事をいい加減に取り扱ったとして罰せられた[1]

康保3年(966年)12月17日薨去享年60。最終官位三品中務卿

官歴

注記のないものは『日本紀略』による。

系譜

脚注

  1. ^ a b 『扶桑略記』天徳5年5月10日条。『古事談』4,勇士
  2. ^ a b c 『九暦』