廉塾

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廉塾(れんじゅく)は、江戸時代儒学者菅茶山によって備後国(現・広島県福山市神辺町)に開かれた私塾。「廉」という字には「倹約(けんやく)をする・贅沢(ぜいたく)をしない」という意味があり、茶山の教育方針に沿ったものと考えられている。

開塾は、1775(安永4)年、茶山が28歳の時である。初期は、素読などを教える寺子屋のようなものであった。その後、次第に発展し、1785(天明5)年には、「金粟園(きんぞくえん)」と称して他国の講師による講義も行われるほどになる。 1792(寛政4)年頃には居宅に南面する黄葉山(こうようざん)に由来して「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」「閭塾(りょじゅく)」と称した[1]

施設

菅竹浦が昭和10年に著した『廉塾採訪記』には、表門からまっすぐ中門に進む小径には数棟の寮舎があったという管理人の記憶が紹介されているが、現存するのは中門の右側に隣接する「寮」(かいりょう)1棟のみである。小径の左には池があり、「廉塾養魚池 政酉抄冬為」と彫った石柱がある。また、池の周囲には5本の柳が植わるが、これは茶山が陶淵明の故事に倣い、五柳先生と自称したことによる。

中門をくぐると講堂になり、庭の西側に二階建ての茶山の自宅、書庫、風呂場などがあり、講堂は三室設けられる。講堂の右側には広い濡れ縁がある。講堂の脇には高屋川から引いた水路があり、塾生はここで筆を洗った。講堂の一番奥には塾頭部屋に使われた小部屋があり、頼山陽が一年余りこの部屋に住んで塾生を指導したという[2]

廉塾は文化文政期に最盛期を迎えたが、『福山市史(中巻)』によれば、廉塾の「諸生金銀差引算用帳」をもとに塾生の人数を計算したところ、1811年(文化8年)から1824年(文政7年)までの入舎生数は330名余りに上ると推定される。年に20名余りが新しく入舎していたが、去っていった者をも計算に入れると、いつも30名ほどが在籍していたと思われる。

門下生には、頼山陽北条霞亭関藤藤陰江木鰐水、門田朴斎などがいる。

廉塾及び茶山旧宅は、1953年に国の特別史跡に指定されている。

所在地

  • 広島県福山市神辺町大字川北640
    • 菅茶山記念館とは同じ場所にはない。記念館は廉塾から更に北へ1km程度。

アクセス

参考文献

  • 『菅茶山の世界 黄葉夕陽文庫から』菅茶山関係書籍発刊委員会2009年

脚注

  1. ^ 「教育者としての菅茶山」-菅茶山記念館 http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/kannabe-kanchazan/3114.html 閲覧日 2019年11月23日
  2. ^ 奈良本辰也『日本の私塾』淡交社 昭和44年 p.116-118。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度32分41.0秒 東経133度23分04.0秒 / 北緯34.544722度 東経133.384444度 / 34.544722; 133.384444