平古場昭二

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平古場 昭二
1954年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 1928年
没年月日 2007年8月
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

平古場 昭二(ひらこば しょうじ 1928年 - 2007年8月?)は、日本の野球選手、プロ野球審判員。戦後初の高校野球優勝投手となった人物でもある。

来歴・人物

兄に国民野球連盟唐崎クラウンに選手として所属し、後に関西六大学野球の理事長を務めた平古場正晴がいる。

1946年阪急西宮球場で行われた戦後第一回目となる第28回全国中等学校優勝野球大会浪華商業学校の投手として活躍。準決勝の東京高等師範附属中(現・筑波大附属中・高)戦において、1試合19奪三振の大会記録を達成(タイ記録)するなどして、同校の戦後初優勝に貢献した。

卒業後は慶應義塾大学に進学。東京六大学リーグ通算65試合登板し、29勝26敗、258奪三振。1948年秋季のリーグ戦では東大1回戦でノーヒットノーランを記録。最終年の1951年(昭和26年)には主将を務めた。

慶應義塾大学卒業後は社会人野球鐘紡へと進み選手として活動し、鐘紡の都市対抗野球大会三連覇に貢献するなどの活躍を見せている。

選手としてはプロ野球入りはしなかったが、後にパ・リーグ審判員となり、4年間務めた。

1969年、パリーグ審判員を退職して香川県小豆島に移住。2002年頃までゴルフ場総支配人などを歴任。

2007年8月11日、小豆島の自宅で死亡しているのが発見された。同月上旬に死亡したものと推定されるが、正確な死亡日は不明である[1]

浪華商業学校時代

エピソード

戦後初の夏の甲子園で優勝投手となった当時、兵庫県淡路島に在住していた小学生、深田公之(ふかだ・ひろゆき、当時9歳)は平古場の快挙を新聞の活字で知り(当時は勿論テレビというメディアは存在せず)、「このヒラコジョーっちゅう選手、どないなピッチャーなんやろなあ」と思い、高校野球に興味を持ち始め、公之と甲子園大会を結びつけるきっかけとなった。この公之少年こそ、後に作詞家小説家として名を馳せる阿久悠である。奇しくも、阿久も平古場と同じ2007年8月(1日)に70歳で亡くなっている。

脚注

  1. ^ 平古場昭二さん死去/戦後初の優勝投手 四国新聞 2007年8月11日閲覧

関連項目