嵐徳太郎

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あらし とくたろう
嵐 徳太郎
本名 片山 孝三郎 かたやま こうざぶろう
別名義 嵐 菊麿 あらし きくまろ
嵐 長二郎 あらし ちょうじろう
生年月日 1911年
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 京都市
職業 子役俳優俳優
ジャンル 歌舞伎サイレント映画
著名な家族 嵐璃徳 養父
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嵐 徳太郎(あらし とくたろう、1911年 - 没年不詳[1])は、日本の子役俳優、長じて俳優である。関西歌舞伎の舞台に幼少時に上がり、サイレント映画の子役として活躍した。のちに嵐 菊麿(-きくまろ)、嵐 長二郎(-ちょうじろう)と改名する[1]。本名は片山 孝三郎(かたやま こうざぶろう)である[1]

人物・来歴

1911年(明治44年)、京都市に「片山孝三郎」として生まれる[1]

当時関西歌舞伎の俳優だった嵐璃徳の養子になり、5歳で初舞台を踏む[1]。1920年(大正9年)5月、璃徳が一座とともに帝国キネマ演芸の設立に参加、9歳の徳太郎も入社、子役として映画に出演する[1]。同年、一座の座付作者だった中川紫郎が監督した『少年忍術春若丸』で初めて主演を務める[1]

17歳になる1928年(昭和3年)、マキノ・プロダクション御室撮影所に移籍する[1]。1930年(昭和5年)にはマキノを退社し、1932年(昭和7年)には「嵐菊麿」の名で東活映画社、「嵐長二郎」の名で河合映画製作社の映画にそれぞれ出演する。1933年(昭和8年)には「嵐徳太郎」に戻って新興キネマ、1934年(昭和9年)には阪東妻三郎プロダクションで映画出演する[1]ころにはすでに23歳である。その後1936年(昭和11年)、大都映画に入社するが、1938年(昭和13年)には退社した[1]

第二次世界大戦開戦後に召集されて戦地に赴き、終戦後もシベリア抑留される。帰国後は、会社員となった[1]。その後の消息、死去時期等は不明である[1]

フィルモグラフィ

帝国キネマ演芸

マキノ・プロダクション

東活映画

嵐菊麿

河合映画

嵐長二郎

新興キネマ

関連事項

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年。

外部リンク