岩井喜一郎
岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8月17日 - 昭和41年(1966年)4月7日)は、日本の醸造技術者、実業家。京都府平民[1]。
1909(明治42)年に、摂津酒造(現:宝ホールディングス)においてアルコール連続蒸留装置を考案。岩井式アルコール連続蒸留装置としての地位を確立。明治45年に新式焼酎(焼酎甲類)並びに、酒精含有飲料を全国に率先して製造開始、大正8年に合成清酒を開発し、工業的大量生産の創始となった。
経歴
[編集]喜右衛門の長男[1]。
明治35年(1902年)、大阪高等工業学校醸造学科卒業[1]。明治42年(1909年)、合資会社摂津酒精醸造所に入社(後の摂津酒造)。大正9年(1920年)、摂津酒造 常務取締役兼技師長に就任。
昭和9年(1934年)、大阪帝国大学工学部講師に就任(~1961年辞任)。昭和12年(1937年)、摂津酒造 常務取締役を辞任。
昭和20年(1945年)、本坊酒造顧問に就任。昭和33年(1958年)、黄綬褒章を受章。昭和35年(1960年)、本坊酒造 山梨工場におけるウイスキー製造設備を設計。昭和39年(1964年)、日本醗酵工業会顧問に就任。
人物像
[編集]逸話
[編集]大阪高工(現・大阪大学工学部)15期生であった竹鶴政孝は、摂津酒造へ入社の際、大阪高工醸造科の1期生として先輩であった、岩井喜一郎を頼って摂津酒造へ入社した。
1918年摂津酒造・阿部喜兵衛社長、常務であった岩井喜一郎が、竹鶴政孝をスコットランドに派遣。1920年に、日本人として初めてウイスキー造りを学んだ竹鶴政孝が帰国し、岩井喜一郎に実習報告書を提出した。国産ウイスキーの原点「竹鶴ノート」(全2冊)=“実習報告”である。
『マルスウイスキー』の誕生
[編集]1945年、本坊酒造・顧問に就任、1960年ウイスキー部門の計画を任され、手元に残していた「竹鶴ノート」をもとに、山梨でのウイスキー蒸留工場設計と指導に携わり本格的にウイスキーを作り始める。竹鶴に従った製法で「ヘビーでスモーキーなウイスキー」であったという。9年後、本坊酒造は販売不振のため撤退を余儀なくされた。岩井の死後、1981年 鹿児島工場での生産を開始で再参入し、自社の焼酎「宝星」から引いた「火星(マルス)」から「マルスウイスキー」が誕生した。[2]
家族・親族
[編集]岩井家
[編集]- 弟・種一[1]
参考文献
[編集]- 『ウイスキーと私』竹鶴政孝、非売品、ニッカウヰスキー、1972年。
- 『ヒゲのウヰスキー誕生す』川又一英、新潮社、1982年。
- 『痛快!地ウイスキー宣言』穂積忠彦 編著、白夜書房、1983年。
- 『私の履歴書』本坊豊吉、日本経済新聞社、1989年。
- 『ものづくり上方“酒”ばなし』、大阪大学出版会、2012年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『人事興信録. 7版』(大正14年)い九四
- ^ マルスは生きている!【全2回/前半】
- ^ a b c 『人事興信録. 第11版』(昭和12年)上イ三三八