山背部小田

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山背部小田
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 文武天皇2年(698年)12月
別名 氏:山代
官位 勤大弐、直広肆
主君 天武天皇持統天皇
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山背部 小田(やましろべ の おだ[1])は、飛鳥時代の人物。氏は山代(やましろ)とも書く。冠位は勤大弐、直広肆。

壬申の乱672年)で大海人皇子(天武天皇)に従い、東海道に軍の動員を命じる使者になった。

出自[編集]

山背部氏の出自は明らかでないが、山背国造家山背氏(山背直)の私有部曲とする説がある[2]

経歴[編集]

壬申の乱を起こした大海人皇子は、6月26日までに美濃国伊勢国が味方についたことを知った。そこで伊勢国朝明郡郡衙から、さらに東海(東海道)と東山(東山道)の軍を発するための使者を遣わした。山背部小田と安斗阿加布が東海への使者になった。彼等は無事に任務を果たしたらしい。

続日本紀文武天皇2年(698年)12月30日に、勤大弐の山代小田に直広肆の位を贈ったとする記事がある。『日本書紀』と『続日本紀』で、このような位階贈与記事は、壬申の功臣の死亡時に設けられる。山代小田は山背部小田と同一人物で、この日かその少し前に死んだと推測できる。

脚注[編集]

  1. ^ 旧仮名遣いでの読みは「やましろべのをだ」
  2. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年