孫静
姓名 | 孫静 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 幼台(字) |
本貫・出身地等 | 揚州呉郡富春県 |
職官 | 昭儀中郎将〔孫権〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 孫堅→孫策→孫権 |
家族・一族 | 兄:孫羌 孫堅
甥:孫策 孫権 孫翊 孫匡 孫朗 |
孫 静(そん せい、生没年不詳)は、中国後漢末の人物。字は幼台。孫堅の末弟で、孫策・孫権の叔父。孫暠・孫瑜・孫皎・孫奐・孫謙の父。孫壱(孫奐の庶子)の祖父。孫峻(孫暠の三男孫恭の子)・孫綝(孫暠の長男孫綽の子)の曽祖父。『三国志』呉志「宗室伝」に記録がある。
生涯
兄・孫堅が挙兵すると、同郷や一族の者たち5、600人のまとめ役となり、後方を守った。
後に甥の孫策が劉繇を破り、そのまま揚州に勢力基盤を築くため、会稽太守の王朗を攻めることにした。孫策は孫静を呼び寄せ、孫静はそれに応じ一族を引き連れて銭唐において孫策に合流した。王朗は固陵において守りを固め、孫策はこの防備を突破することができないままであったが、孫静は、王朗を打ち破るため、要地である査瀆を占拠するよう孫策に献策した。孫策はその進言を受け、計略を用いて王朗を欺き、査瀆を経由して高遷の王朗の陣地を攻撃した。王朗は援軍に元の丹陽太守の周昕を差し向けたが、孫策は周昕らを破りこれを斬り、そのまま会稽を平定した。孫策は上表して孫権を奮武校尉に任命し重要な任務を与えようとしたが、孫静は故郷にとどまることを願い、これを辞退したため、孫策は孫静の願いを聞き届けた。
孫権が当主となると、孫静はようやく官位を受けて昭儀中郎将にまで昇進した。後に官職を退き、故郷において死去したという。
子孫
長男の孫暠は孫策により定武中郎将に任命されて烏程に駐屯していたが、孫策の死の直後に会稽郡を占拠しようとたが、虞翻の説得を受けてこれを思いとどまったという[1]。
孫暠の子の孫綽、孫超、孫恭はそれぞれ安民都尉[2]、偏将軍、散騎乗侍[3]となった。孫暠の孫の孫峻と孫綝は呉の末期に政変に乗じて政治の実権を握り権勢を振るったが、孫綝が孫休に誅殺されると、孫峻・孫綝の一族は皆殺しとなり、一族の系図からも外されたという[4]。
孫暠の弟の孫瑜、孫皎、孫奐は孫権の代に兵権を任されてそれぞれが活躍した。
三国志演義
小説『三国志演義』では、劉表と対立した孫堅が袁術の誘いに乗って荊州を攻撃しようとしたとき、これを諌める働きもしている。
家系
? | 孫羌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫堅 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫静 | 孫暠 | 孫綽 | 孫綝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫瑜 | 孫恭 | 孫峻 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫皎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫奐 | 孫承 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫壱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
参考資料
- 『三国志』