天竺
天竺(てんじく)とは、中国や日本が用いたインドの旧名[1]。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではない。
由来
中国人がインドに関する知識を得たのは、張騫の中央アジア(後年の用語で言う西域)探検によってであった。司馬遷の『史記』では、インドを身毒(しんどく)の名で記している(大宛列伝、西南夷列伝)。天竺の名は『後漢書』に見える(西域伝「天竺国、一名身毒、在月氏之東南数千里」)。また天篤という字も使われた[2]。
インダス川のことをサンスクリットで Sindhu、イラン語派では Hindu と呼んだ。またイラン語派の言語ではインドのことをインダス川にちなんで Hinduka と呼んだ。身毒も天竺も、この Hinduka に由来している[3]。
おなじ Hindu が 古代ギリシア語: Ἰνδός を経て、ラテン語: Indus となり、そこから India の語が生まれた。
インド方面から中国に渡来した人の姓としても「竺」の字が使われた(竺法護)。また、仏教の僧侶が竺姓を名乗ることもあった(竺道生)。
後に、音韻変化によって天竺や身毒が Hindu と音の違いが大きくなると、賢豆という字もあてられた[4]。
天竺にかわって印度の語をはじめて用いたのは玄奘であるが、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている[5]。また、この語をインドラの町を意味する Indravardhana に結びつける説も現れた[4]。
日本
日本では『義経記』八巻の「真に我が朝の事は言ふに及ばず、唐土天竺にも主君に志深き者多しと雖も、斯かる例なしとて、三国一の剛の者と言はれしぞかし」などに見えるように、かつては唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本)を三国と呼び、これをもって全世界と表現した。
日本では原義から離れて、はるか彼方の異国から渡来した珍しい品物に対して、天竺という接頭辞を付けるという使い方も生まれた。ダリアのことをかつて天竺牡丹と呼んだが、これはダリアが日本にはオランダ人によってもたらされたからである。
現代日本では、天竺を『西遊記』で玄奘ら一行が取経に向かった地とすることが多いが、『西遊記』原文には天竺の語はあまり現れず、通常は西天(『西天竺』の略) と呼んでいる。
脚注
- ^ “天竺(てんじく)の意味”. goo国語辞書. 2019年12月2日閲覧。
- ^ 『漢書』張騫・李広利伝「吾賈人往市之身毒国。」注「李奇曰:一名天篤、則浮屠胡是也。」
- ^ E.G. Pulleyblank (1962). “The Consonantal System of Old Chinese”. Asia Major, New Series 9 (1): 117 .
- ^ a b 道宣『続高僧伝』巻二:「賢豆」、本音「因陀羅婆陀那」、此云「主処」。謂天帝所護故也。「賢豆」之音、彼国之訛略耳。「身毒」・「天竺」、此方之訛称也。
- ^ 玄奘『大唐西域記』水谷真成訳注、中国古典文学大系22, 1971, 56頁.