大西良慶

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大西 良慶(おおにし りょうけい、1875年明治8年)12月21日 - 1983年昭和58年)2月15日)は、北法相宗京都清水寺の貫主を務め、晩年は長寿の高僧としても有名であった。

略歴

奈良県の出身であり、本名は広次、は「無隠」。1889年に奈良の興福寺に入り、千早定朝師に従い出家する。奈良英和学校英学を学ぶ[1]1890年法隆寺佐伯定胤唯識を学ぶ。1899年、興福寺231世となり、1904年には、法相宗の管長に就任する。

1914年、清水寺住職となるが、興福寺も兼務する。1965年、清水寺を本山とする北法相宗を設立、初代の管長に就任する。法相宗以外の諸宗にも造詣が深く、日本宗教者平和協議会会長など仏教界の要職を歴任した。良慶節と呼ばれる独特の説法でも親しまれた。平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)世話人も務めた。

1976年鹿児島県に生まれて話題となった日本初の五つ子の名付け親としても有名である。

1983年、107歳で天寿を全うした。当時の男性長寿日本一でもあった[要出典][2]。日本人男性としては最後の明治一桁生まれの生き残りでもあった。

著書

  • 『観音経講話』

脚注

  1. ^ 中川良和「奈良英学史抄」『英学史研究』第1978巻第10号、日本英学史学会、1977年、121-134頁、ISSN 1883-9282 
  2. ^ ただしその当時は泉重千代の1865年生誕説が広く信じられていたため、生前の大西は男性長寿日本一とはみなされていなかった。

関連項目

外部リンク