大村純安

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大村 純安(おおむら じゅんあん、1850年嘉永3年) - 1870年9月27日明治3年9月3日))は、江戸時代末期(幕末)の儒医。徳島藩士。淡路国洲本出身。字は誠卿。号は竹窓。

生涯

初め中村栗園、巖谷一六に学び、後に漢学を岡田鴨里、奥井寒泉等に学び、蘭学を篠田秀道に学んだ。1865年慶応元年)より江戸に出て英学を学んだ。後に帰郷。著作に「竹窓遺稿」がある。

1870年明治3年)に庚午事変(いわゆる稲田騒動)で洲本の稲田家襲撃に関与したことにより、同年9月3日新居水竹小倉富三郎等とともに徳島市吉野本町萬福寺にて切腹した[1]。享年21。これが日本法制史上、明治以後に行われた切腹刑の1つとされる(最後の切腹刑は、2年後の1872年(明治5年)11月4日金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち[明治の忠臣蔵と言われている]により、石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され切腹した旧臣12人[本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎]である[2][3])。

脚注

  1. ^ 大村純安【おおむらじゅんあん】”. 徳島県立文書館. 2022年5月11日閲覧。
  2. ^ 石川県立図書館 (2015年12月1日). “「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な資料はないか。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2021年4月21日閲覧。
  3. ^ 谷正之「弁護士の誕生とその背景(3) : 明治時代前期の刑事法制と刑事裁判」『松山大学論集』第21巻第1号、松山大学総合研究所、2009年4月、279-361頁、ISSN 09163298NAID 1100075792002021年6月1日閲覧 

参考文献