新居水竹

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新居 水竹(にい すいちく、1813年5月15日文化10年4月15日) - 1870年10月9日明治3年9月15日))は、江戸時代末期(幕末)の徳島藩士。現在の徳島県徳島市富田町出身。幼名は与一助。

父は徳島藩の料理方である新居春洋(米之丞)、先妻は鹿、後妻は同藩出身で太政官出仕の官僚である林厚徳の妹、たか。

生涯[編集]

幼少の頃より父・春洋・柴野碧海那波鶴峰岩本贅庵鉄復堂に漢学を学び、詩書に長じていた。1838年天保9年)に父・春洋が自刃した為に家督相続する。1841年(天保12年)、12代藩主・蜂須賀斉昌の侍臣となり、1850年嘉永)3年斉昌に従って江戸に行き、昌平黌などで学び、10月帰国後は日帳格・庭方となる。1857年(安政4年)5月より7月まで京都で病気養生するも、1859年(安政6年)に13代藩主・蜂須賀斉裕の中小姓となり、1860年万延元年)、14代藩主・蜂須賀茂韶の侍講となる。

1862年(文久2年)から1863年(文久3年)にかけて藩命により京都に何度も入り時事を尽くし、同年閏8月には大小姓となるが、八月十八日の政変により失脚し、池田村郷学校の教授となる。明治元年池田村郷学校教授の任を解かれ、同2年正月、徳島長久館教授となる。同年5月には金陵会議(四国会議)へ藩命により参加する。同8月長久館学頭に就任する。

版籍奉還に伴う稲田家の分藩運動が起こり、1870年(明治3年)4月徳島藩士と稲田家臣説諭のため来藩していた小室信夫立木兼善の帰京に際し、藩士総代10名を東京の新政府に派遣し歎願することになり、その監督として新居水竹小倉富三郎が選ばれた。上京後、総代間に稲田家処罰の議論が高まり、水竹ら2人は彼らを説得したが抑えきれず、5月6日早朝、東京の一ツ橋徳島藩邸から大村純安ら8名が脱帰するのを黙認し、5月13日洲本などを襲う庚午事変が起こった。水竹はその責任を問われて斬刑に処せられ(特に切腹を許される)、9月15日東京白金徳島藩邸で切腹した。介錯人は原謹吾、介添人は益田武衛で、ともに水竹の弟子であった。日本法制史上、明治以降に切腹が執行された事例の1つである(最後の切腹刑は、2年後の1872年(明治5年) 11月4日金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち(明治の忠臣蔵と言われている)により、石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され切腹した旧臣12人(本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎)である[1][2])。

遺髪が小心塾時代の弟子・近藤廉平(元日清汽船社長、日本郵船会社社長)によって、徳島市潮見寺に葬られている。

脚注[編集]

  1. ^ 石川県立図書館 (2015年12月1日). “「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な資料はないか。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2021年4月21日閲覧。
  2. ^ 谷正之「弁護士の誕生とその背景(3)明治時代前期の刑事法制と刑事裁判」『松山大学論集』第21巻第1号、松山大学総合研究所、2009年4月、279-361頁、ISSN 09163298NAID 1100075792002021年6月1日閲覧 

関連項目[編集]