大名墓地 (岐阜県恵那市)

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大名墓地(だいみょうぼち)は、岐阜県恵那市岩村町に残る岩村藩大名及び藩士の墓地。『乗政寺墓地』ともいう。

歴史 

大給(宗家)松平氏

関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)1月に、徳川氏譜代大給松平氏松平家乗上野那波藩から岩村藩へ移封となり久翁山 龍厳寺を建てた。慶長19年(1614年)2月に家乗が死去したので龍厳寺の境内に大きな堂が立てられ位牌や仏像を安置していたが、子の松平乗寿が、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ加増移封となったため龍厳寺は廃された。後に堂が朽ち果てたので、跡地に『松平前泉州家乗之墓』と刻んだ墓石が建てられた。その他、松平家乗の父である松平真乗の『梅香院殿清岸道翁大禅定門 慶長十五年』という供養塔、松平家乗の妻の『松樹院殿栄誉盛繁大信女 寛永九年』という供養塔がある。

一色丹羽氏

織田信長に仕えた丹羽氏勝の長男丹羽氏次は尾張国の岩崎城を本拠地とし、近くに菩提寺として大椿山 妙仙寺を開山した。織田信雄の家臣時代を経て、最終的には徳川家康に仕えて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦功を挙げ、氏次は三河国伊保藩1万石の藩主となったが寛永15年(1638年)には伊保藩は廃藩となり、岩村藩へ2万石で入った。その際、大給松平氏が建てた龍厳寺の跡に妙仙寺を建て、その墓地に丹羽氏信・氏定・氏純・氏明の墓を建てた。しかし第5代藩主・丹羽氏音の時代に藩財政の困窮を救うため、新進の山村瀬兵衛を側用人として抜擢し数年にして財政改革を成し遂げたものの、旧来からの丹羽氏の家臣達から憎まれて騒然としてきたので、氏音は山村瀬兵衛に身を退くように勧めたが、山村瀬兵衛が幕府に内情を訴えたために御家騒動となり、幕府からそれを咎められて、氏音は政令疎怠の理由で1万石に減らされて元禄15年(1702年)6月22日、越後高柳藩へ移封され、さらに氏音の養子・丹羽薫氏延享3年(1746年)に播磨国三草藩に転封されて明治維新まで続いた。妙仙寺は、丹羽氏が三草藩に移った時に播磨へ移転し、現在は兵庫県加東市上三草にある。そのため岩村藩主であった丹羽氏信・氏定・氏純・氏明の墓は、大名墓地に家臣の墓とともに残されている。

妙仙寺

一色丹羽氏が菩提寺としていた大椿山 妙仙寺は、現在、愛知県日進市岩崎町と兵庫県加東市山国の両方に存在する。一色丹羽氏が、岩村藩主となると大給松平氏の建てた龍厳寺の伽藍に妙仙寺を移した。末寺として清楽寺天長寺禅林寺がある。元禄15年(1702年)丹羽氏が岩村藩から越後の高柳藩に移封となると妙仙寺も岩村を離れ、さらに播磨の三草藩に移封となると、現在の兵庫県加東市に移された。そのため岩村藩主であった丹羽氏信・氏定・氏純・氏明の墓は、岐阜県恵那市岩村町の妙仙寺(乗政寺)跡にある大名墓地に残されている。

大給(分派)松平氏

丹羽氏が移封後の元禄15年(1702年)9月7日、信濃小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が岩村藩に2万石で入った。その際に丹羽氏の菩提寺の妙仙寺の建物を受け取り小諸城内にあった菩提寺の松石山 乗政寺を仏像や位牌と共に岩村へ移した。大給分派松平氏は藩主の墓を岩村には建てず、全て江戸上野の春性院に建てたが、松平乗薀の長男で松平乗国の『玄達院殿踏雲幻光大童子 明和九年』という供養塔、松平乗保の長男で松平乗友の『大成院仁雄智道大居士 享和元年』という供養塔がある。明治2年(1869年)、最後の藩主である松平乗命版籍奉還により岩村藩知事に任じられたが、明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村藩は廃藩となったため、乗政寺も廃されて、寺宝など一切は、近くの晴雲山 隆祟院に移した。そのため大名墓地(乗政寺墓地)には乗政寺は存在していない。

大名墓地内にある墓及び供養塔

大給(宗家)松平氏

一色丹羽氏

大給(分派)松平氏

岩村藩士

重臣の丹羽瀬氏・荻山氏・森氏・河合氏・佐藤氏などの墓が、大名墓地内に残っている。また明治に女子教育に力を入れた下田歌子と、その夫の下田猛雄の墓が大名墓地内にある。

脚注

参考文献

  • 岩村町史
  • 女城主の里いわむら (いわむら町まちづくり実行委員会)

外部リンク