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大久保忠良

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大久保 忠良
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 安政4年5月5日1857年5月27日
死没 明治10年(1877年3月29日
改名 岩丸(幼名)、忠良
墓所 東京都世田谷区太子堂教学院
官位 従五位下加賀
幕府 江戸幕府
相模小田原藩
氏族 大久保氏
父母 父:大久保教義、養父:大久保忠礼
兄弟 忠良教正
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大久保 忠良(おおくぼ ただよし)は、相模小田原藩の第10代(最後)の藩主。小田原藩大久保家12代。

経歴

安政4年(1857年)5月5日、小田原藩の支藩である相模荻野山中藩主・大久保教義の長男として江戸で生まれる。明治元年(1868年)、第9代藩主・大久保忠礼林忠崇伊庭八郎らと協力して新政府に反逆した責任を問われて強制的に隠居させられたため、忠礼の養子となって家督を継いだ。ただし、石高を11万3,000石から7万5,000石に削減された上で相続している。

明治2年(1869年)の版籍奉還で小田原藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免職された。同年の9月に新銭座慶應義塾に入学する。明治8年(1875年)7月、病気を理由に大久保家の家督を忠礼に返している。

明治10年(1877年)、西南戦争に参加し、3月29日に熊本県山本郡において戦死した。享年21。

参考文献

  • 丸山信編『人物書誌体系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843