多治比今麻呂
多治比 今麻呂(たじひ の いままろ、天平勝宝3年(753年) - 天長2年8月29日(825年10月14日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての公卿。参議・多治比土作の八男。官位は従三位・参議。
経歴
延暦13年(794年)に中判事に任ぜられる。同年式部少丞を経て、延暦16年(797年)従五位下・肥後介に叙任。桓武朝末に京官に復し、式部権少輔・勘解由次官・右少弁を歴任する。
延暦25年(806年)平城天皇の即位後間もなく美作介となり再度地方官に転じる。大同3年(808年)に従五位上・大宰少弐に叙任されて大宰府に遷った。
嵯峨朝に入ると、大同5年(810年)正月に正五位下・右中弁に叙任され再度京官に復し、同年9月に発生した薬子の変に伴って従四位下に昇叙される一方、新たに皇太子に冊立された大伴親王(のち淳和天皇)の春宮大夫も兼ねた。その後、式部大輔・大蔵卿・左京大夫や下野守・摂津守といった地方官を歴任した後、弘仁8年(817年)参議に任ぜられて公卿に列した。議政官として大蔵卿・宮内卿を兼帯し、弘仁11年(820年)には1年の内に続けて昇叙されて従三位となり、同年末には大宰帥に転じている。
天長2年(825年)8月29日薨去。享年73。最終官位は参議従三位[1]。
官歴
※註釈の無いものは『六国史』の記載に従う。
- 延暦13年(794年)3月17日:任中判事[2]。3月29日:任式部少丞[2]。
- 延暦16年(797年)正月7日:叙従五位下。正月13日:任肥後介。
- 延暦24年(805年)10月4日:任式部権少輔。
- 延暦25年(806年)正月-日:任勘解由次官[2]。2月6日:任右少弁。6月3日:任美作介[2]。
- 大同3年(808年)11月17日:叙従五位上。11月27日:任大宰少弐。
- 大同5年(810年)
- 弘仁2年(811年)11月21日:任式部大輔。
- 弘仁5年(814年)正月-日:任大蔵卿[2]。
- 弘仁6年(815年)11月16日:任式部大輔[2]。
- 弘仁7年(816年)正月10日:任下野守[2]。2月3日:任左京大夫[2]。
- 弘仁8年(817年)正月11日:兼摂津守[2]。10月1日:任参議。11月18日:兼大蔵卿[2]。摂津守如元。
- 弘仁9年(818年)6月5日:兼遷宮内卿[2]。摂津守如元。
- 弘仁11年(820年)正月7日:叙従四位上。正月-日:叙正四位下[2]。12月5日:叙従三位。任大宰帥[2]。
- 天長2年(825年)8月29日:薨去。享年73。最終官位は参議従三位。