士仁

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士仁
後漢
出生 不詳
幽州広陽郡
拼音 Shì Rén
君義
主君 劉備孫権
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士 仁(し じん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての人物。君義幽州広陽郡の出身。はじめ劉備に仕え、後にの武将となった。

三国志楊戯伝が引用する『季漢輔臣賛』などでは「士仁」とする[1]が、関羽伝のみ「傅士仁ふしじん」となっており、『資治通鑑』・『三国志演義』などもこの表記を継承している[1]

生涯

その生地から劉備の最古参の部下の1人と思われるが、彼の半生は不明な部分が殆どである。

劉備に仕える将軍として荊州公安城(江陵に隣接する)に駐屯し、南郡太守である糜芳と共に荊州の守備を任されていた。また公安には益州の旧主である劉璋とその次男の劉闡の身柄も移されていた。要所を任されていることからも、それなりの地位にあったと考えられる。

二人とも荊州の軍事総督である関羽と常日頃から折り合いが悪く、関羽が樊城に向けて出陣すると、二人は軍需物資の補給などの後方支援に全力を尽くさなかった。関羽が「帰還した暁には処罰してやる」と言ったため、以後不安を感じるようになり、孫権がこれを聞きつけて誘いをかけると両者は内通するようになり自ら使いを出して孫権軍を迎え入れたという[2]。『三国志』呉書呂蒙伝では、関羽が公安の留守兵を呂蒙の計略に掛かり、曹操との戦いにまわしてしまったため、呂蒙は関羽に気づかれることなく南郡まで到達し、士仁らは単に降るとあり内通していたかどうかには言及されていない[3][4]

物語中の傅士仁

小説『三国志演義』では虞翻の親友にされている。関羽の敵討ちのために攻めてきた軍に怯え、糜芳と共に馬忠を斬り、その首級を持って呉から離反する。しかし、劉備に命乞いするも許されず、劉備自らの手で糜芳と共に斬り殺されている。吉川英治の小説『三国志』では、関羽の子関興に斬首されることになっている。

出典・脚注

  1. ^ a b 李慈もこの説を採っている。しかし、盧弼『三国志集解』では「後漢には二文字の姓が多いため、傅士仁は誤りではない」と述べている。
  2. ^ 『三国志』蜀書 関羽伝
  3. ^ 『三国志』呉書 呂蒙注引く呉録では糜芳が失火によって軍資を燃やしてしまったことを叱責され内通したと記録しているが、士仁も内通していたかには触れていない。
  4. ^ 『三国志』呉書 呂蒙伝注引く韋曜の『呉書』によると士仁は降伏勧告の使者である虞翻の手紙を読み涙ながらに降伏した。その時、虞翻が呂蒙に対し「これは偽りの兵でございます。軍勢を残して城を固めるとともに、士仁を連れて進軍すべきです」と告げたため、呂蒙と虞翻は士仁を連れて南郡へ向かった。糜芳は籠城し城を守ったが、呂蒙が士仁の姿を糜芳に見せると、糜芳もついに降伏したとある。

参考文献

  • 三国志』蜀書15楊戯伝
  • 同蜀書6関羽伝
  • 同呉書9呂蒙伝
  • 同呉書9呂蒙伝から引く『呉書』