北野政次
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は日本の陸軍軍人。陸軍軍医中将。勲三等医学博士。731部隊の第二任部隊長。生体解剖、人体実験の推進者であった[1]
戦後は、朝鮮戦争当時(1950年)に内藤良一、二木秀雄ら七三一部隊に関係した幹部たちとともに後のミドリ十字となる会社を日本ブラッドバンクとして企画創設し[2]、北野 政次自身も参加した[3]。
同社は、731部隊の中枢として陸軍軍医学校防疫研究室主任教官の内藤良一による、細菌兵器開発のための凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。[4]。とくに設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。[4]
また、第一期南極特別委員会の委員であり、文部省百日咳研究会にも参加した[3]。
本多勝一に著書『中国の旅』の中で、七三一部隊の隊長を務めた人物として批判された[5][6]。
経歴
兵庫県出身[3]。関東軍防疫給水部長、第13軍軍医部長を歴任する。
年譜
- 1894年 兵庫県に生まれる[3]。
- 1920年 東京帝国大学医学部卒業[3]。
- 1921年 陸軍二等軍医(軍医中尉)に任官。
- 1932年 8月、東京第一衛戍病院附兼陸軍省医務局課員。その後、病院附を解かれ、医務課員と陸軍軍医学校教官を兼任。石井四郎とともに中国東北地方に軍医少佐として赴く[3]。
- 1936年 6月8日、満州医科大学細菌学教授に就任。主任を担当する[3]。
- 1942年 8月1日、関東軍防疫給水部長(731部隊)着任。1945年3月1日まで731部隊の石井四郎の後任として第2代部隊長を務める。
- 1945年 4月30日、陸軍軍医中将に昇進。支那派遣軍(上海)第13軍軍医部長となる。8月、終戦に伴い上海で捕虜となり、刑務所に拘留される。
- 1946年 1月9日、上海から帰国。
- 1959年 ミドリ十字取蹄役、東京プラント長に就任。10月、石井四郎の死去に伴い葬儀委員長を務める。
- 1986年 死去。91歳。
関連項目
脚注
- ^ 『進步と改革』, 編集社会主義協会, 協同文化社, 1988年, ISSN 0914-8442
- ^ 『細菌戦部隊』, 七三一研究会編, 晚聲社, 1996年, ISBN 489188259X
- ^ a b c d e f g 『中国侵略日本軍第731部隊』日本語版, 中国侵略日本軍第七三一部隊罪証陳列館編纂, 五洲伝播出版社,2005
- ^ a b 『戦争と医学 ― 日本医学界の「15年戦争」荷担の実態と責任パネル』,日本医学会, 三恵社 (2008/04 出版)ISBN 9784883616008
- ^ 『「満州」 における教育の基礎的研究, 第 4 巻』, 竹中憲一著, 柏書房, 2000
- ^ 『中国の旅』本多勝一著, 朝日新聞出版, ISBN 978-4022608055