内藤政脩

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内藤 政脩
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦2年10月25日1752年11月30日
死没 文化2年7月24日1805年8月28日
改名 松平徳十郎(幼名)、松平睦精、内藤政脩、暁山(法号)
戒名 尚徳院暁山居士
墓所 神奈川県鎌倉市光明寺
官位 従五位下備後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
日向延岡藩
氏族 尾張徳川家内藤氏
父母 徳川宗勝:寺島氏
養父内藤政陽
兄弟 徳川宗睦松平義敏、豊姫、松平勝長松平義当松平勝綱竹腰勝起井上正国頼多松平勝鷹政脩、邦姫、品姫、恭姫、陽姫
正室内藤政陽の娘
政和
養子政韶
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内藤 政脩(ないとう まさのぶ)は、日向国延岡藩の第3代藩主。延岡藩内藤家宗家8代。

生涯

宝暦2年(1752年)10月25日、尾張名古屋藩主・徳川宗勝の14男として名古屋で生まれる。幼名は徳十郎、元服時に、次兄で尾張藩主を継いだ徳川宗睦より偏諱を与えられて松平睦精(ちかきよ/よしきよ)と名乗る。明和7年(1770年)に延岡藩の第2代藩主内藤政陽の養子となり、内藤政脩に改名した。10月29日に政陽が隠居すると家督を継いだ。

天明の大飢饉による大被害で農村は荒廃した。このため、藩財政がさらに悪化したため、御用金・献上金などで急場をしのいだ。安永2年(1773年)からは新田開発を行ない、倹約令を出し、文武を奨励し、風紀粛清のために「延岡若蓮中議覚書」を出しているが、いずれもほとんど効果はなかった。寛政2年(1790年)8月20日、養子の政韶(養父・政陽の長男)に家督を譲って隠居する。

文化2年(1805年)7月24日、延岡で死去した。享年54。

系譜