内藤政文

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内藤政文
時代 江戸時代後期
生誕 文政13年6月13日1830年8月1日
死没 安政5年9月30日1858年11月5日
改名 貴之助(幼名)、顕道(初名)、清風(号)
戒名 峻聡院殿明誉清風藍山大居士
墓所 東京都港区高輪の光台院
官位 従五位下山城守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定
三河挙母藩
氏族 井伊氏内藤氏
父母 井伊中顕生駒吉雄
養父:内藤政優
兄弟 政文井伊亮寿
内藤政成養女・増子
文成、信子
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内藤 政文(ないとう まさふみ)は、江戸時代後期の大名三河国挙母藩6代藩主。官位従五位下山城守。挙母藩内藤家10代。井伊直弼の甥である。

生涯[編集]

文政13年(1830年)6月13日、井伊中顕近江国彦根藩主・井伊直中の六男)の三男として誕生する。嘉永4年(1851年)に叔父で挙母藩5代藩主・内藤政優が死去したため、その養子として家督を継ぎ、12月16日に従五位下・山城守に叙位・任官する。なお、4代藩主・内藤政成も同じく叔父で、当時は隠居として健在であり、また政文の正室・増子は政成の孫娘で養女であった。

嘉永5年(1852年)より馬産を奨励して産業振興を図り、安政2年(1855年)には洪水でたびたび悩まされていた安永川の修築に努めた。そのほかにもオランダ軍制や西洋医学の導入に努めて、文武の奨励を図った。政文は馬術に優れた人物で、馬場稽古所を設置して、自ら藩士を訓練したという逸話もある。

安政5年(1858年)9月30日に死去した。享年29。跡を長男の文成が継いだ。

系譜[編集]

父母

正室

子女