今村学郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。KasparBot (会話 | 投稿記録) による 2015年6月7日 (日) 10:32個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Normdaten moved to wikidata)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

今村 学郎(いまむら がくろう、1900年10月14日 - 1982年11月4日[1])は、日本の地理学者地形学者地質学者

経歴

東京出身[1]。後に専修大学総長を務めた弁護士今村力三郎の息子として生まれた[2]

1927年東京帝国大学理学部地理学科を卒業。1928年、文部省留学生としてドイツに渡りベルリン大学に学び、翌1929年にはパリ大学に移る。その後、1930年に2か月スウェーデンに滞在し、シベリア経由で帰国。同年、東京文理科大学助教授となった。今村が在職した当時の東京文理科大学地理学教室は、福井英一郎吉村信吉らもおり、大学の所在地から「大塚の黄金時代」と評された[1]

今村の研究業績は多岐にわたったが、1933年には「地理学における法則、自然環境の解釈等」をめぐって石田龍次郎と論争し[3]1937年には『科学』誌上で海岸段丘をめぐって大塚弥之助と論争を展開したほか、氷河地形に関して多様な観点からの業績を残した[1]1944年、「日本アルプスにおける氷河地形」で理学博士。

終戦後、占領期にはGHQに勤務[4]1952年国際地理学会議には、駐留軍情報部地理課所属として参加した[5]。後に教壇に復帰し、専修大学に教員として勤めた[1]

また、日本第四紀学会の創設(1956年)に参画した[要出典]

人物

英語ドイツ語フランス語スウェーデン語に通じていた[4]

山本荘毅は、今村について「すばらしい学者」であったとした上で、「しかし、性格的に一般人とは相容れぬものがあり、孤高の存在であった」と評した[1]竹内啓一は、今村が「強い個性」をもっており、しばしば否定的に言及される存在であったことを指摘しながら「日本のアカデミー地理学の形成と発展の過程において大きな影響力をもったことを否定することはできない[6]」と述べている。

今村の墓は、父今村力三郎と同所で、多摩霊園にある[2]

おもな著書

  • 今村学郎『自然関係諸論』岩波書店〈岩波講座地理学〉、1932年、61頁。 
  • 今村学郎『日本アルプスと氷期の氷河』岩波書店、1940年、162頁。 

出典・脚注

  1. ^ a b c d e f 山本荘毅「今村学郎先生の御逝去を悼む」『地質學雜誌』第89巻第12号、日本地質学会、1983年12月15日、740頁、NAID 110003023257 
  2. ^ a b 今村学郎”. 歴史が眠る多磨霊園. 2012年4月17日閲覧。
  3. ^ 竹内啓一ひとつの地理学 : 石田龍次郎の場合」(PDF)『一橋論叢』第89巻第4号、1983年4月1日、612-613頁、2012年4月17日閲覧 
  4. ^ a b 式正英スウェーデン語」(PDF)『お茶の水地理』第13号、1972年2月1日、51-52頁、2012年4月17日閲覧 
  5. ^ 日本地学史編纂委員会、東京地学協会「戦後日本の地学(昭和 20 年-昭和 40 年)〈その 1〉 ― 「日本地学史」稿抄―」(PDF)『地学雑誌』第117巻第1号、2008年、270‒291、2012年4月17日閲覧 
  6. ^ 竹内啓一地理学者の夢と現実」(PDF)『一橋論叢』第95巻第3号、1986年3月1日、321頁、hdl:10086/127952012年4月17日閲覧