仁宗 (高麗王)
仁宗(じんそう、1109年 - 1146年)は第17代高麗王(在位:1123年 - 1146年)。諡号は克安恭孝大王、姓は王、諱は楷。本貫は開城。睿宗の第一皇子。母は順徳皇后李氏。皇后は李資謙の三女廃妃李氏と四女廃妃李氏、中書令任元厚の娘である恭睿皇后、兵部尚書金睿の娘である宣平皇后。
経歴
1115年(睿宗10年)李資謙の推挙で太子に冊封され、1122年には李資謙によって擁立され即位した。
李資謙は仁宗の母后たる順徳皇后李氏の父でありながら、自分の外孫に当たる仁宗に自分の三女を嫁に入れて皇后に冊立して更に強い権力を行使しようとした。仁宗の立場で見ると、自分は自身の叔母と結婚していたのであった。そんな仁宗は、外祖父で義父である資謙と対立していた。資謙は自分に抗う孫を毒殺するつもりで皇后に毒入りの餅を上げて、仁宗を毒殺せよと命じたのだが、皇后は甥でありながら夫でもある仁宗に全てを告白して夫の命を救い、その直後父によって廃位された後、都城から追放された。その後、資謙は皇帝の外祖父であるため失脚を免じて自身の四女をまた仁宗の皇后に冊立させて皇帝の権威を利用して伝横を躊躇しなかった。
1126年、資謙がついに叛乱を起こして仁宗を弑害しようとしたが、その時にも夫を救おうとした皇后の策によって失敗し、資謙は全ての権力と財産、官爵を没収され王毒殺の嫌疑で霊光郡に流刑の身となった。叛乱は終わったのだが、皇帝の命を救った皇后は以前廃位された姉と同じく廃妃になってしまった([1]の乱)。1127年には各地方の州と県に学校を設立して、教育に力を傾けた。この年、恭睿太后林氏の間に毅宗が生まれる。
1135年、妙淸の西京(現在の平壌)遷都運動をきっかけとして発生した妙清の乱の時は、三国史記の著者で有名な金富軾を総征討大将に任じて叛乱を平定し、遷都反対派の文臣派が勝利した。
金と宋との外交と交易にも注力した。1145年に金富軾に三国史記の執筆に取り掛かるように命じたが、 完成を見られずに在位24年間で逝去した。陵は開城の長陵である。
家族
后妃
- 廃妃李氏(李資謙の三女、叔母)
- 廃妃李氏(李資謙の四女、叔母)
- 恭睿皇后 任氏 (1109年~1183年)